「蜘蛛の巣」
「さて会社に行くか」
いつもより若干早く目が覚め、何かウキウキした
気分で朝を迎えた。
アパ−トの鍵を閉めると、通い慣れた道を駅へと向かった。
いつもと同じように朝日を浴びながら歩いていると、
大きな屋敷の前で張り出した木に、
小さな物が動いているのが見えた。
普段なら気にする事なく通り過ぎるのだが、
時間に余裕もあり、近づいて見てみる事にした。
それは女郎蜘蛛の巣に掛かった蝶だった。
「今日は気分も良いし、助けてやるか」
少し手を伸ばし、蜘蛛の巣に掛かっていた蝶を
助けると空に放してやった。
蝶は何事も無かった様に、屋敷の花の方へと飛んでいった。
蝶が見えなくなるまで見ていた後、ふっと蜘蛛の巣を見ると、
獲物をさらわれてしまった女郎蜘蛛が、
次の獲物を捕まえるために、せっせと巣を直していた。
蜘蛛は僕が見ているのが分かったのか、
直すのを一時やめて、巣の中心で身を潜めた。
「まあ、しょうがないよな」
朝露にキラキラと光っている蜘蛛の巣から、
視線を外すと駅の方へ歩き始めた。
蜘蛛の視線を感じることなく・・・
「今日も残業で疲れたなあ」
人通りのない道をアパ−トへと向かっていた。
時計を見ると11時をすでに回っていた。
電気の消えている家も多く、住宅街ということもあり、
辺りはすでに眠り始めているようだった。
アパ−トへの道を歩いていると、
少し先で人がうずくまっているように見えた。
近づいて行って見ると、30代ぐらいの女性が苦しそうに
お腹を押さえて屈み込んでいた。
「大丈夫ですか?どうかしましたか?」
彼女の肩に手をやり、尋ねてみた。
「えっ、ええ大丈夫です。ちょっと差込がしたものですから。」
彼女は私の方に振り向くと、少し痛そうな表情をしたまま、
大した事はないという様に作り笑顔を向けてきた。
「宜しければ肩を貸しますが、家までお送りしますが?」
「恐れ入ります、大分収まりましたが、
そうして頂けると助かります。お言葉に甘えさせて頂きますね。」
僕は彼女の腕を僕の肩に回すと、
ゆっくりと立ち上がり、彼女の身体を預かった。
「家はどちらです?」
「この先で、ほんの直ぐの所なんです。」
彼女の様子を見ながらゆっくりと歩き始めた。
「あっ、ここですわ。」
彼女の言葉に視線を上げると、沢山の木に覆われた屋敷があった。
いつも通勤で通っているはずの道であったが、
彼女の屋敷は初めて見る様な気がした。
通勤する時の記憶を探っていると
「こちらから中へお願いします。」
屋敷の玄関まではほんの数メ−トルであったが、
彼女と共に歩いていると沢山の視線を感じた。
「?」
気になって辺りを見ても、特にそれらしき物はいなかった。
彼女はポケットから鍵を取り出すと、玄関のドアを開けた。
「どうぞ、そこの居間までお願いします。」
彼女に肩を貸しながら、廊下を進んでいく。
居間まで来ると、
「ここで少しお待ち下さいね。ちょっと薬を飲んできます。」
彼女は随分楽になったのか、僕にソファ−に腰掛けるよう言うと、
廊下を奥の方へと歩いていった。
程なくすると、彼女は戻って来た。
コ−ヒ−をトレイに乗せ、着替えたマント姿で。
「本当に有り難うございました。コ−ヒ−をどうぞ」
テ−ブルにコ−ヒ−カップを置くと、僕の隣に腰を下ろした。
「それでは頂きます。」
カップを手に取り彼女の方を見ると、痛みの無くなった笑顔をしていた。
そんな僕の視線に気が付いたように、
「夜になって急に冷え込んだ様で、もう大丈夫ですわ。
この様にマントで暖めますから。」
彼女の言葉に着ているマントを見ると、
黒く大きなマントは暖かそうであった。
光の加減だろうか、所々キラキラとしている様に見えた。
気になってやや顔を近づけてみると、
「ああ、これですね、このマントには特別な糸が織り込んでありますの。
特別製の物で、一般の方には手に入りませんが・・・・」
その様に言うと、彼女はマントを持ち軽く揺らした。
空気の抵抗を受けてしなやかに揺れるマントは、
その糸の存在を見せつける様にキラキラと輝いていた。
しばらく見とれていた僕に、
「良かったらくるまれてみますか?」
彼女は僕を見ながらにっこりと微笑んでいた。
「さっ、遠慮なさらずに」
彼女は立ち上がると、僕の手を引っ張り、
立ち上がった僕の頬に両手を添えてきた。
「今日は有り難うございました・・・」
言葉を発し終えた彼女の唇が重なってきた。
甘く、暖かなキス・・・
やがて彼女は唇を離すと、マントの両サイドを持ち上げ、
大きく広げて再び近づいてきた。
彼女のマントを持つ腕は、やがて僕の両肩に乗せられ、
僕の身体を、隙間無く優しく包んでいった。
マントで僕を包み終えた彼女を見ると、冷たい微笑みをしていた。
「もう、逃げられないわよ、逃がしてくれる人もいないし・・・」
彼女の言葉にゾッとした僕は、彼女を突き飛ばそうと腕を持ち上げた。
「?!」
腕にマントが絡み付き、弾力を持っているかの様に自由を奪っていた。
驚いている僕の顔を見ていた彼女は、素早く身体を数回揺さぶった。
彼女が動くと更にマントは僕の身体に絡みつき、
身動きが出来なくなってしまった。
「ふふっ、無駄よ、逃げることは不可能よ」
「離せよ!何をするんだ!」
「あきらめなさい、貴方が悪いんだから」
「何だと?どうして僕が?」
「人間のエゴを出してしまったから・・・」
「どういうことだ?」
「貴方は私の食べ物を奪ってしまった、自分の感情だけで・・・
今朝、蜘蛛の巣に掛かった蝶を逃がしたわね、
私はもうすぐ子供を産むのよ、その為には必要な栄養だったの、
貴方がした些細な事は、私達にとっては死を意味するのよ。
人間の些細なエゴのために・・・でも安心して、殺しはしないわ。」
「どうするつもりだ?」
「これから私は産卵をしなければならないの、
その為には貴方の栄養が必要なの、そう、毎日少しずつ頂くわ・・・」
僕は大声を出そうとすると、彼女は更に身体を揺さぶった。
声を発する間もなく、視界が暗闇になり、顔もマントに覆われてしまった。
口に付いたマントは粘着質で、完全に動きを封じ込まれてしまった。
「これで子供達の成長するまでは大丈夫ね、
こんな大きな獲物は初めてだし・・・」
暗闇の中で聞いた最後の言葉だった、彼女の何本もの腕の中で・・・