レパントの海戦
1571年10月7日「レパントの海戦」
キプロス島を攻略したオスマントルコ艦隊を、スペイン、ベネチア、ローマ教皇の連合艦隊がギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖で迎撃し、大勝した戦い。
オスマン・トルコに対する最初の西欧の勝利で、これを機にスペインは最盛期を迎えた。
両軍の兵力
ドン・ジョンを総司令官とするカトリック連合艦隊(スペイン、ベネチア、ローマ法皇の各艦隊、総計317隻、兵員8万4千名)
アリ・パシャを司令官とするオスマントルコ艦隊(242隻、兵員8万8千名)
戦闘配置
カトリック連合艦隊は3つの戦術部隊に分けられました。中央部隊はドン・ジョン自らが率いるガレー船64隻からなり、右翼部隊はドリア指揮のガレー船54隻、左翼部隊はバルバリゴ指揮のガレー船54隻で構成されていました。前衛としてはコルドナ指揮のガレー船8隻、後衛としてサンタ・クルズ候指揮のガレー船30隻があてられました。ガレー船以外にも巨大なガレアス船6隻やガレオン船26隻の他、フリーゲートやブリガンティン船76隻も配備されました。
オスマントルコ艦隊は中央部隊が司令官アリ・パシャ指揮のガレー船95隻、左翼部隊がウルチ指揮のガレー船93隻、右翼部隊がシロッコ指揮のガレー船54隻で構成されており、後衛に若干の予備艦隊が置かれていました。
キリスト教国艦隊陣形
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オスマン艦隊陣形
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戦闘経過
1.午前9時半頃、両軍の艦隊は互いに正面から接近して行きます。
オスマントルコ艦隊の司令官アリ・パシャは敵の超大型ガレアス船の登場に驚き、一瞬ためらいながらも全艦隊に突撃を命じました。午前10時半頃、戦闘が始まります。オスマントルコ右翼のシロッコ隊が、カトリック連合艦隊ガレアス船の猛砲撃を受けて混乱状態に陥りました。
シロッコ隊の最右翼は海岸に押しやられてしまいますが、海岸に沿って巧みに航行し、カトリック連合艦隊バルバリゴ隊の左側面に回り込もうとします。これに気づいたバルバリゴはシロッコ隊左翼に攻め込んだため、シロッコ隊は混乱の極に達しました。戦闘の最中、バルバリゴは敵の矢に眼を射られて瀕死の重傷を負い、次いで指揮を取ったマルコ・コンタリニもすぐに戦死してしまいます。このようにカトリック連合艦隊バルバリゴ隊は大きな損害を出したにもかかわらず、オスマントルコ艦隊シロッコ隊を壊滅させることに成功し、1隻の敵船も逃がしませんでした。
(西)キリスト教国艦隊、(東)オスマン艦隊
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2.中央隊同士の戦闘は30分遅れで始まります。
まずカトリック連合艦隊のガレアス船2隻の猛砲撃が、オスマントルコ艦隊の司令官アリ・パシャの乗艦を襲いました。アリ・パシャ隊は敵の砲撃を受けながらも敵船に突進、両軍の旗艦は接舷して互いに斬り込み隊を投入し合い、他の船も増援の兵を送り込みます。午後1時半頃、ローマ法皇艦隊の指揮官コロンナが自艦をアリ・パシャの旗艦に横付けして、小銃で敵艦の甲板を掃射しました。続けてすぐに3度目の斬り込み隊が送り込まれます。この時にアリ・パシャは額に弾丸を受けて倒れ、突入してきた斬り込み隊員に捕えられてしまいました。こうしてオスマントルコ艦隊の旗艦は捕獲され、司令官のアリ・パシャはその場で斬首されたのです。この時点でオスマントルコ艦隊中央隊はすべて潰走してしまいました。
3.カトリック連合艦隊右翼のドリア隊は敵艦隊に包囲されることを恐れて南に進んで行きました。オスマントルコ艦隊左翼のウルチ隊もドリア隊を追って南へと向かいますが、中央隊との距離が空きすぎたことに気づきました。同じように空いている敵軍の右翼隊と中央隊との間隙に突入するチャンスです。オスマントルコ艦隊ウルチ隊はすぐに引き返し、カトリック連合艦隊中央隊の右側面に襲いかかりました。このカトリック連合艦隊のピンチに逸早く気づいたサンタ・クルズ候は予備隊の全てを中央隊の右側面に急行させ、南に向かったドリア隊もすぐに引き返します。これによってオスマントルコ艦隊ウルチ隊は敵軍に包囲される前に脱出するため、せっかく捕獲した船をすべて放棄せねばなりませんでした。
レパントの海戦は、カトリック連合艦隊の大勝利に終わります。カトリック連合艦隊の損害はガレー船13隻(沈没12隻、捕獲1隻)死傷者1万5千名に対し、オスマントルコ艦隊の損害はガレー船230隻(沈没113隻、捕獲117隻)戦死者3万名、溺死者多数、捕虜8千名にのぼり、ガレー船の漕手に使われていたキリスト教徒の奴隷1万5千名が解放されます。
オスマントルコ艦隊の船で無事に脱出できたのは、たった10隻余りに過ぎませんでした。
新規作成日:2002年2月11日/最終更新日:2002年2月26日