ポートランド沖海戦

1653年2月28日〜30日「ポートランド沖海戦」
〜 第1次 蘭 英 戦 争 〜



両軍の兵力

ブレーク率いるイギリス艦隊(80隻)
トロンプ率いるオランダ艦隊(75隻)



当時の軍艦

16世紀の中頃、ヨーロッパの軍艦はほとんどがガレオン船になりました。
この完成度の高い帆船軍艦は、300年間にわたってその基本構造を変えることはほとんどありませんでした。武器である大砲は両舷に並べられていたので、戦闘は1列縦隊に並んだ艦隊同士がすれちがったり、平行に並んだ時に行われました。砲撃で敵艦に損害を与えてから近づいて接舷し、斬り込み隊を送り込んで敵艦上で血みどろの白兵戦を展開したのです。



両軍の配置

オランダ艦隊は3隊に分けられ、開戦時にはほぼ東方向に進んでいました。オランダ艦隊司令官トロンプは中央隊を自ら率い、左翼隊はデ・ロイテル提督、右翼隊はエバツエン提督が指揮しており、中央の後方に250隻の商船隊が置かれました。

イギリス艦隊も3隊に分かれてオランダ艦隊の行く手を阻むため南西方向に進みました。イギリス艦隊司令官ブレークは右翼隊(赤隊)をラウソン、ホーエット両提督と共に率いて、中央隊(青隊)をペン提督とレイン提督に任せ、左翼隊(白隊)はモンク提督に指揮をとらせます。



戦闘経過

28日の戦闘
オランダ艦隊は、イギリス艦隊に前方をさえぎられると急いで商船隊を風上に避難させ、トロンプ率いる中央隊が左舷後方からの風を満帆に受けてイギリス艦隊の先頭(ブレーク隊)に攻撃をかけます。
続いてデ・ロイテルが指揮するオランダ艦隊左翼隊が、ブレークのイギリス艦隊右翼隊の側面を襲いました。しかし、この時ブレークの右翼隊を救援するため、イギリス艦隊の中央隊が駆けつけたのです。ペン率いるイギリス艦隊中央隊は、トロンプのオランダ艦隊中央隊の右側面に襲いかかりました。
イギリス艦隊の左翼隊(モンク指揮)は、エバツエン指揮のオランダ艦隊右翼隊に攻撃されたので、中央隊、右翼隊と共に戦うことが出来ませんでした。戦闘は午前8時から午後2時頃まで続きますが、商船隊が心配なオランダ艦隊司令官トロンプは、午後4時頃に艦隊を引き上げることにします。
イギリス艦隊は、この日の戦いを優位に終らせますが、貴重な艦長の多くを失いました。艦隊司令官のブレークも腹部に重傷を負ってしまいます。対するオランダ艦隊の損害も大きく、司令官トロンプは乗員の3分の2を失い、デ・ロイテルの旗艦は帆柱が折れて危うく敵に捕獲されるところでした。

29日の戦闘
2日目の戦闘は、商船隊を護衛して海峡を東に向かうオランダ艦隊をイギリス艦隊が追跡する形で始まります。オランダ艦隊は商船隊を守るために専ら守勢に立ちますが、昼頃にはイギリス艦隊に追いつかれてしまい、ワイト島付近で3時間の激戦が繰り広げられました。しかし、この日の戦いも双方に多くの死傷者を出しただけで勝負はつかず、さらに翌日に持ち越されます。

30日の戦闘
オランダ軍は、弾薬の残り少なくなった艦船を本国へ帰したため、わずか35隻の軍艦で商船隊を護衛しながら戦わなければなりませんでした。一方、イギリス艦隊の司令官ブレークは負傷のため指揮することが出来なくなって後方へ退きます。絶対的に不利なオランダ艦隊は、ペン率いるイギリス艦隊の追跡を振り切るため、総司令官のトロンプが、デ・ロイテルと共に後衛の指揮をとることになりました。朝から始まった激戦の末、オランダ艦隊の2人の優秀な指揮官はイギリス艦隊を撃退することに見事、成功します。その後のオランダ艦隊は、フランスのカレー沿岸で暗くなるまで仮泊したのち、夜の闇に隠れて引き潮に乗り、海峡を突破していったのでした。
この海戦でオランダ艦隊は、商船70〜80隻を失いますが、残りの商船はほとんどを護送することに成功します。一方の軍艦は約30隻が沈められてしまいました。これに対してイギリス艦隊の損害は非常に少なく、ほんの数隻の軍艦を失っただけですので、この海戦はイギリス軍の勝利といえるでしょう。

この戦いはイギリス、オランダ両軍に貴重な戦訓を与えました。それは、海戦においては確固たる戦闘隊形をつくらなければ勝利できないということでした。イギリス海軍は縦隊が最良の戦闘隊形であると確信しましたが、オランダ海軍は縦隊の各艦に独断行動をも許す柔軟な戦闘が有効であると考えました。また、この海戦では当初から戦闘用に造られた軍艦と海戦を専門とする海軍士官の価値が高く評価され、専門海軍士官はこの時にはじめて設けられます。これまでは操船担当の士官と戦闘担当の士官とが別々におり、戦闘担当士官には斬り込み隊の指揮をするために陸軍軍人が当てられていたのでした。


トロンプ

(1597年〜1653年)
南ネーデルラント出身のトロンプは、1624年にオランダ海軍に入り、1637年には海軍中将に昇進しました。1639年2月にフランドル沖でスペイン艦隊を破り、同年9月には英仏海峡でスペイン・ポルトガル連合艦隊を撃破します。1652年5月19日、イギリス海峡においてオランダ艦隊と遭遇したイングランド艦隊の指揮官ブレークがオランダ艦隊に敬礼をするよう要求し、オランダ艦隊提督のトロンプがこれを拒否するとともに発砲したことによって第1次蘭英戦争が始まりました。
こうして開始された海戦は、付近にいた両国の主力部隊(数十隻)が参加して大混戦となりましたが、勝敗はつかず引き分けに終わります。その後もトロンプはオランダ艦隊を率いて、ブレーク率いるイングランド艦隊と英仏海峡において何度も戦います。1653年「ノース・フォーランド海戦」では、当初オランダ艦隊が優勢でしたが、戦闘中に風向きが変わったことで一転して不利な戦いとなり、イングランド艦隊に敗北してしまいました。同年8月には、オランダ沿岸を封鎖中のモンク率いるイングランド艦隊に挑戦しますが、オランダ艦隊は大きな損害を出して敗退してしまいます。トロンプ自身もこの戦いで戦死してしまったのでした。

モンク

(1608年〜1670年)
根っからの軍人であるモンクは、1642年に国王軍の指揮をとってアイルランドの反乱鎮圧にあたりました。1644年、市民革命の最中であるイングランド本国に呼び戻されますが、上陸するとすぐに議会軍に捕まってしまい1646年には議会軍に参加します。アイルランドやスコットランドでの戦闘でクロムウェルに認められ、第1次蘭英戦争では艦隊司令官としてオランダ艦隊と戦いました。
1654年にスコットランド総督に任命された彼は、1659年、王政復古を指導して公爵の位を獲得、枢密院議員となり、第2次蘭英戦争が始まると再びイングランド艦隊司令官の職につきます。
1666年6月、デ・ロイテル率いるオランダ艦隊がイングランドの海岸に迫り、これを迎え撃つイングランド艦隊との間で極めて激しい戦闘が展開されました。この海戦は4日間にわたって激戦が続いたので「4日海戦」として有名なものになります。4日目の戦闘ではデ・ロイテルの指揮するオランダ艦隊が、イングランド艦隊の中央にあったモンク隊めがけて突進してイングランド艦20隻を撃沈、6隻を捕獲しましたが、オランダ艦隊の損害は4隻が沈没しただけでした。
このように戦闘はオランダ艦隊の大勝利ですが、敗北したイングランド艦隊はモンクの優秀な指揮のもと、混乱することもなく艦隊の規律を維持し続けることができたのです。


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新規作成日:2002年2月11日/最終更新日:2002年2月11日