ハンプトン・ローズの海戦

1862年3月9日「ハンプトン・ローズの海戦」
〜 史上初の装甲艦同士の戦い 〜



両軍の兵力
北軍の装甲艦「モニター」、木造帆船「カンバーランド」「コングレス」「ミネソタ」 南軍の装甲艦「バージニア」



南軍の装甲艦「バージニア」(旧名「メリマック」)
南北戦争初期の1861年4月、北軍がバージニアから退去する際、北軍士官によってノーフォークにある海軍造船所が爆破されます。そこにエンジン不調のため係留されていたのが合衆国海軍の蒸気フリゲート艦「メリマック」でした。造船所の爆破で係留中の「メリマック」も火災を起こし沈没してしまいましたが、造船所を占拠した南軍のブルック大佐らの提案により船体が引き揚げられ、装甲艦に改装されることになります。船名も「バージニア」と変更されました。
1862年2月中旬に「バージニア」は装甲艦として完成、直ちにモンローに向けて出発します。
艦長には、フランクリン・ブキャナン大佐が選ばれました。
       
船体、および武装
排水量は3500トン(4000トン説もあります)で、船体の六割は吃水線下に沈み、水面上の砲室は左右の側壁が大きく傾斜しています。側壁は、厚さ24インチの木材の表面に厚さ2インチの鉄板を縦横二重に、計4インチの厚さに張ってあります。水上に曝露する砲室の高さは、わずか15フィートだけでした。船体の構造にはかなり問題があって、水漏れ箇所が多くみられました。
備砲は、9インチの滑腔砲6門、6.4インチ施条砲2門、7インチ施条砲2門、12ポンドりゅう弾砲2門の計12門です。



機関、航行性能
もともと調子の悪かったエンジンをそのまま使っていたので、「バージニア」は極めて扱いにくく、パワーの不十分な船でした。速度は6ノットから最高でも9ノットしか出ません。最悪なのは操舵で、180度の進路変更に30分から40分もかかってしまいます。



北軍の装甲艦「モニター」
設計者はスウェーデンからの移住者で、発明家であった技師ジョン・エリクソンです。
南軍が「メリマック」を装甲艦に再生しているという情報により、急遽建造を始め、1862年2月下旬になんとか完成させました。艦長はジョン・ワーディン大尉。 乗員は55人です。

船体、および武装
排水量は1200トン(987トン説もある。)、史上初の鉄材だけで作られた船でした。
水上に出ているのは船体の浅い上部と砲塔だけで、内径20フィートの砲塔は8インチから9インチの鉄板(重量120トン)で覆われています。側壁は2インチから4.5インチ、甲板は0.5インチの鉄板が使われていました。備砲は11インチのダールグレン滑腔砲2門のみでした。


機関、航行性能
「モニター」は、建造に100日かけ、1862年1月30日にブルックリンのコンチネンタル製鉄所からニューヨークのイースト.リバーに運ばれて進水しました。この船には47の新案の発明が使われていましたが、川を渡るテスト航海で多くの問題が明らかになります。
船は舵に反応せず、船体には水漏れがあり、ベンチレーターが役に立たなかった為、排気ガスが船室内に満ちて船員達を悩ませました。「モニター」の蒸気機関は推進機の他、砲塔の旋回、弾薬供給、機械室の通風などにも使われていました。速度は9ノットです。


戦闘経過
「バージニア」、ジェームズ河口に出現。
1862年3月8日、「バージニア」はチェサピーク湾のジェームズ河の河口に現れ、北軍の「カンバーランド」と「コングレス」、および「ミネソタ」の3隻(いずれも木造帆船)と交戦しました。「カンバーランド」の砲撃は「バージニア」の装甲に跳ね返され、逆に「バージニア」の突撃を受けて、その衝角で船腹に穴を開けられて沈没してしまいます。「コングレス」は「バージニア」の砲撃を受けて炎に包まれ、「ミネソタ」は浅瀬で座礁させられてしまいました。
「カンバーランド」は排水量1700トン、砲24門を持つ木造のコルベット艦でしたが、装甲艦の敵ではなかったのです。

「モニター」、ハンプトン・ローズで「バージニア」を迎撃。
完成した「モニター」は荒天の中をニューヨークからハンプトン・ローズに向かって出発しましたが、浸水があまりにひどいため待機し、翌日の3月9日午前1時になって座礁した「ミネソタ」の視界に入りました。「ミネソタ」を守るため「バージニア」を確認した「モニター」が1800メートルで砲撃を開始します。砲弾は「バージニア」の装甲に命中し、激しい衝撃を与えましたが、鉄板にひびをいれただけでした。つづく2発目は跳ね返されてしまいます。
「バージニア」は強力な砲で反撃を開始し、1発が「モニター」の砲塔をへこませました。両艦の乗員は、艦内にこだます砲撃の音で耳が聞こえなくなり、砲煙で何も見えなくなりましたが、砲撃は続けられます。

しばらくすると、戦闘は接近戦になりました。2隻は衝角をなんとか相手にぶつけようとしますが、両艦とも操舵が悪いので全然うまくいきません。4時間半の激戦の後、「バージニア」のブキャナン大佐はついに退避を命じました。(ほぼ同時に「モニター」のワーディン艦長も退避を命じたという説があります。)両艦とも船体の鉄板と艦上構造物にかなりの損害がでており、「バージニア」は沈没を避けるために幾つかの砲を船外に捨てなければならなかったほどでした。



戦闘分析

「モニター」と「バージニア」の砲撃戦では、互いに相手の装甲を破ることは出来ず、「バージニア」の砲室の裏側をいくらか壊したにすぎません。「バージニア」の砲弾はりゅう弾と葡萄弾の2種類でした。対して「モニター」の砲弾は鋳鉄の実体弾のみで、砲撃回数は40回以上になりました。「バージニア」の鉄板には百ほどのへこみがあり、そのほとんどが5百回以上もの砲撃を行った「ミネソタ」の砲弾によるものと思われます。「バージニア」の砲室に当たった砲弾の衝撃はひどく、乗員は耳や鼻から出血を起こしたほどでした。一方「モニター」の砲塔内の砲手は、直接壁に触れていない限り別状ありませんでした。互いに衝角を敵艦にぶつける攻撃は5回におよびましたが、これは「バージニア」には実に危険なものでした。なぜなら「モニター」と違って「バージニア」は、木製の船体の上に鉄板を貼っているだけだったからです。



2隻のその後

この戦いの2ヵ月後、南軍はノーフォークから追い出され、「バージニア」は自沈に追い込まれてしまいます。「モニター」は1863年1月にノース・カロライナ沖を航行中、折りからの嵐のため荒れた海に沈没してしまいました。


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新規作成日:2002年2月11日/最終更新日:2002年2月11日