ポエニ戦争
当時地中海世界で最大の領土を誇っていたカルタゴが、ローマとカルタゴの間にあるシチリア島へ進出してきた。この島を制圧しイタリア半島も押さえれば、カルタゴの地中海制圧が完成する。それを恐れたローマはシチリアの王達の要請を受けて、対カルタゴに参戦する。これがその後百年以上続いたポエニ戦争の始まりである。
第1次から第3次まで紀元前264年から146年まで断続的に戦われた。
当時ローマは、陸軍が中心で軍船はたいして持っていなかったが、船を研究し、陸の戦いを参考にした新しいタイプの軍船を造ってカルタゴに応戦した。船に攻城戦兵器だった鈎付きの梯子を付け、接近戦に際し相手の船にこの兵器を倒して船をつなぎ敵の船に乗り込んでだ結果 、ティレニア海での海戦は連戦連勝を重ね、第1次ポエニ戦争に勝利した。
ミレー海戦 前260
「海のカルタゴ、陸のローマ。」
戦いは、海では五段櫂のカルタゴ船が三段櫂船のローマを圧倒し、陸ではレギオンがカルタゴ傭兵軍を圧倒していた。
この状態を打破したのはローマであった。きっかけはカルタゴの五段櫂ガレー船を偶然にも回収できたことである。ローマはこれを分解、解析して同様の船を建造することに成功。増産にうつり、百隻の船を完成させた。(カルタゴ軍船は150隻ほど)
さっそく実戦で使用したローマ軍だが、結果は惨敗。カルタゴとの操船技術の差は雲泥であり、使用した17隻全てが拿捕されてしまった。
当時のガレー船の戦法は2種類あり、櫂を折って行動不能に陥れるか、船腹を突き破って沈めるか、どちらかであった。同じ戦法では勝てないことを悟ったローマ軍は新戦法開発に迫られた。
苦慮の末に編み出されたのはコルヴス(カラス)戦術と呼ばれるものである。これは要するに「船の白兵戦」であった。船に鈎付きの渡し板を用意し、敵船に強行接舷。身動きが取れない敵船に兵を送りこんで制圧する。この場合、漕力より兵数が必要だから、普通1隻16人の兵の配置であるところを120人乗せて敵兵を圧倒する。この方法はローマの強兵を利用したものであり、海の戦いを陸の戦いにすり替えるというものであった。
この方法が劇的な効果をもたらしたのは前260年ミレーの海戦である。ローマ執政官ドゥイリウス・ネポスは全軍を率いて南下、ミレー沖合でカルタゴ艦隊と遭遇、戦闘状態に入った。
コルヴス戦法はカルタゴ海軍にいかんなく発揮。対処法を見いだせなかったカルタゴ海軍は150隻中、14隻を撃沈、31隻を拿捕され敗走した。ついにローマが海でも勝利したのであった。
エクノムス海戦 〜チュニス決戦〜 前256〜前255
ミレー海戦以後4年はこれといった海戦はなかった。これは両国とも決定力をかく状態であり、海軍力の増強に努めたからである。カルタゴは350隻まで増強、一方ローマも330隻まで増強し、一挙に敵海軍の壊滅を目論んでいた。
そしてついに前256年、両軍あわせて約700隻、30万人を動員した戦い<エクノムス海戦>が勃発する。しかけたのはローマ海軍、執政官レグルスを主将、ヴスソを副将として14万を動員する対カルタゴ戦を発動したのである。カルタゴはハミルアカルを司令、ハンノを副司令として迎撃した。開戦前においては両国の戦力は拮抗していた。
しかし、カルタゴ側はこの時期になってもコルヴス戦法に対抗する方法を考え出すことができていなかった。そしてそれは致命的であった。カルタゴは百隻の船を失うという惨敗を喫して敗走した。ローマ軍はカルタゴ軍の追撃を開始、アフリカ北岸への上陸を遂げ、カルタゴの東方、クルペア港を3万の兵をもって占領、捕虜3万と無数の捕獲品を得た。もはや陸海ともにローマの優勢であった。
翌年、ローマ<レグルス>軍3万はアフリカアデュスにてカルタゴ軍を撃破。死者1万5千、捕虜5千を出してカルタゴ軍は敗走する。ローマ軍はさらに軍を進める。カルタゴは勢力圏内の都市に城壁、防備を認めなかった為に侵攻は容易なものであった。あっという間にローマ軍はカルタゴ市の目と鼻の先、チュニスに達した。
ここに至り、カルタゴはローマとの和平交渉を打診した。しかし、レギオンの出した降伏条件は苛烈なものであった。
@サルジニア、シチリアの割譲
A艦隊の全譲渡
カルタゴは海洋国家である。艦隊を渡すことはカルタゴの存在意義の否定に等しかった。
カルタゴは徹底抗戦の決意を固めた。全財力を駆使してローマ軍を撃退する決意をである。
まず、シチリア派遣軍を本国に戻した。次に諸外国の優秀な傭兵・ヌミジア騎兵・ギリシア兵を前代未聞の高額で雇い入れた。そして、スパルタの冒険家にして名将たるクサンチップスを招聘し、全軍の総司令に任じた。
クサンチップスは確かに名将であった。彼はローマ軍の弱点が後方拠点クレペアと前線チュニスの距離であると見抜いき、密かに軍を動かして後方を遮断した。退路を断たれて敵中に孤立した状態となったことに気づいたローマ軍は完全に浮き足立った。そこにクサンチップスは全兵力を叩きつけた。
ローマ軍は完膚無きまでに叩きつぶされ、戦場から離脱できたローマ兵は2千に満たず、主将レギオンは兵5百とともに捕虜となり、残りは皆殺しとなった。
敗残のローマに不運は続く。敗残兵2千の回収の為に赴いた大艦隊は、台風に巻き込まれる。操船技術が未熟であったこともあり、350隻の艦隊はイタリアにつくころには80隻にまで減少していた。さらに、それを挽回するため、必死の建造で3ヶ月で220隻にまで戻した艦隊さえも、二年後、再び台風に遭い、150隻が沈没してしまったのである。
ドレパヌム沖海戦 前249
カルタゴ使節団帰還後、レギオンに触発されたように、ローマ軍はすぐさま軍事行動を起こす。
シチリアに残ったカルタゴ拠点はカルタゴに最も近い都市リリーベウムとその北方に位置するドレパヌムのみであった。ローマ軍はリリーベウムを長期間包囲攻撃したが、最終防衛線リリーベウムの防御は鉄壁であり、攻略できなかった。
そこで今度はドレパヌムを攻略すべく、執政官クラウディウスを主将とする310隻の艦隊が本国から派遣された。このときカルタゴ艦隊を指揮していたのが俊英アドヘルバルであり、ローマ艦隊を指揮していたのが戦争下手なクラウディウスであったことがローマ軍にとって不幸であった。アドヘルバル率いるカルタゴ艦隊は、ドレパヌム沖にてローマ艦隊に夜襲を仕掛けた。
もとから操船技術が劣るローマ艦隊は視界が見えない夜ということもあり、コルヴス戦法も有効に使えず、完全に圧倒された。この戦いでローマ艦隊は撃沈187、拿捕93という壊滅的ダメージを受けた。
ローマは急いで本国の残存艦隊を動員して援軍(戦艦120、補給艦800)を派遣する。しかし、ローマ艦隊の操船技術の未熟さが、三度目の天災を招く。援軍はカルタゴ艦隊から遁走中にカマリア沖で台風に遭遇。戦艦2隻以外は全て沈没してしまったのであった。
ここにローマ海軍は一時的に消滅してしまった。
ここがカルタゴの勝機であったと考えるならば、最後の勝機であったろう。しかし、カルタゴは大攻勢に出なかった。そして、疲労した自国の整備にその時間を費やしてしまい、ローマ艦隊を復活させる時間を献上してしまったのであった。
第二次ドレパヌム沖海戦 前241年 〜勝敗決す〜
前241年、ついに復活したローマ艦隊200隻は執政官カツルスに率いられ南下する。目標はかつて大敗したドレパヌム沖。カルタゴ艦隊はそこに駐留していた。ローマ艦隊はカルタゴ艦隊を発見するとすかさず攻撃に移った。油断していたカルタゴ艦隊にとって、それは奇襲をしかけられた格好となり、カルタゴ艦隊は戦意を喪失して敗走した。
ここに、再び制海権はローマに移った。
カルタゴ本国との道をたたれたシチリア派遣軍は孤立し、もはや戦線を維持できなかった。カルタゴ本国は休戦を決議。ハミルカアル・バルカスにカツルスとの休戦講和の折衝を開始するように命じた。
折衝の結果、次の講和条件が提示された。
・カルタゴのシチリア全面撤退、及び侵攻の禁止
・捕虜となったローマ兵の無償解放
・捕虜となったカルタゴ兵の有償解放
・カルタゴは賠償金3200タレントを10か年賦でローマに支払うこと
・イタリア近辺の島はローマに割譲すること
カルタゴ元老院はこの条件をすべて飲んだ。
一方、完全勝利を叫ぶローマ市民も存在した。彼らにたいし元老院は次のように諭した。
「物には順序がある。カルタゴは大国であり、一度に全てを得るのは無理である。我々は少しずつ前進しており、その前進に満足しなければならない。ローマは一日にして成らず、弱小であった我々が今に至るまで数世紀が経過している。大国カルタゴに対する講和条件は我々に圧倒的に優位である。全てか無か、と叫ぶのは神の領分に触れるものである。」
これは元老院のカルタゴ殲滅への決意の現れであったのだろうか?
かくして24年にわたって繰り広げられ、双方10万人以上の戦死者を出した第一次ポエニ戦争は終結したのであった。
第2次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルがスペインから象を従えアルプスを越えて北イタリアに侵入、イタリア本土での戦争になった。
陸戦には強いはずのローマはこの天才的将軍にに苦戦を強いられ、戦いは次々と負けていった。カルタゴの南西にあるヌミディアは強い騎兵軍団のいる国で、その騎兵がハンニバルの軍にいた。ハンニバルはこの騎兵軍団と象を巧みに使い、重装歩兵が中心だったローマ軍を蹴散らした。
次々に敗戦するローマはハンニバルにイタリア中を荒らされたが、堅固だったローマだけは攻撃されずに残り、その年のシーズンを終わる。
翌年、ハンニバルの戦法を研究したスキピオという若い執政官が同じ戦法で戦い、ついにハンニバルを倒した。
第3次ポエニ戦争では、カルタゴの本土に進軍したローマ軍は再びハンニバルを破り、街を粉々になるまで破壊してその戦争は終わった。スキピオはこのポエニ戦役での功績を讃えられ、スキピオ・アフリカヌス(カルタゴは北アフリカにある)の称号を得た。
新規作成日:2002年2月12日/最終更新日:2002年2月12日