壇ノ浦の戦い

1185年4月25日(元暦2年・寿永4年3月24日)
壇ノ浦(関門海峡・瀬戸内海国立公園)で行われた源平最後の合戦。
屋島の戦いで敗れ下関に退いた平氏軍を源氏軍が追撃。
平氏は総帥平宗盛が安徳天皇と神器を奉じ、源義経を総大将とした源氏軍を迎撃、激戦の後に宗盛は生けどられ斬首、平氏は滅亡。
二位の尼(平時子/平清盛の妻で安徳天皇の祖母)は安徳天皇を抱いて入水した。


この時の船の数は平家500艘、源氏700艘といわれている。
彦島から田野浦に向かった知盛率いる平氏は、先陣に山鹿勢、中堅に松浦勢、そして一門の軍勢を後陣と、三軍に分け、正午頃、潮の流れの上方に陣取り、源氏軍に襲いかかった緒戦は海戦に慣れた平家が有利に進めていた。
源氏は潮の流れに逆らって進むに進めず、満珠・干珠島まで後退し、敗色が濃厚だった。
やがて3時頃になると潮目が変わり、義経が平家の船の漕ぎ手と舵取りを射て船の動きを封ずるにつれ京成が逆転し始める。
やがて松浦党のように平氏軍の中から離脱したり、阿波民部重能のように平氏を裏切る者も出始め、勝負は決した。

二位の尼(平時子/平清盛の妻で安徳天皇の祖母)は安徳天皇を抱いて入水した。
建礼門院(徳子/安徳天皇の母で清盛と時子の娘)も入水したが、飛んできた矢が衣に刺さって沈めずにいた所を源氏の武将に引き上げられ、一命を取り留めた。
建礼門院はまだ29歳の若さ尼となり、それから30年間の余生を京都大原寂光院で送りることになりった。そこには後白河法王も訪れたという。

安徳帝の入水を見届けた平知盛は、「見るべき程のものは見つ。今は何をか期せん。」と大碇を差し上げて入水したと伝えられている。

源義経は、漕ぎ手と舵取りを射て平家の舟の動きを封ずる暴挙に出ているが、当時の戦のルールでは、非戦闘員である漕ぎ手と舵取りは、流れ矢などを別として、直接の戦闘による殺傷目標とはしないものであり、船の動きを封ずるという見地からは画期的ではあったものの、ルールを無視するという暴挙愚挙は、我さえ良ければ良いという協調性の無さを如実にあらわしている。

三種の神器(草薙剣、勾玉、鏡)は、海に沈み、源氏の捜索により、勾玉と鏡は見つかったものの草薙剣は発見できず、そのため以後、草薙剣は清涼殿昼御座の剣で代用することになる。
なお、草薙剣の本体はそもそも熱田神宮にあり、安徳天皇が帯同していたのはその分霊で、同様に鏡の本体は伊勢神宮にあった。
皇居に本体があったのは勾玉だけで、京都が首都であった時にはこの3つの神器の所在地がほぼ正三角形を構成していた


源平合戦 源氏の船
Pict_0223.

p2215016.

壇ノ浦古戦場

p2206028. p2206032. p2206033. p2206034. p2206031.

赤間神宮

p2204008. p2204009. p2206035.



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新規作成日:2002年2月26日/最終更新日:2005年9月4日