ペリー
マシュー・C・ペリー
Matthew Calbraith Perry
1794年4月10日生、1858年3月4日没。アメリカ海軍軍人。海軍准将。
ペルリ。漢字名、彼理。
クリストファー・ペリーの三男。
ニックネームは「熊おやじ」(Old Bruin)。
15歳の時、候補生となる。
兄、オリヴァー・ハザード・ペリーの指揮する砲艦「リヴェンジ」に乗艦。
ジョン・ロジャース提督の旗艦「プレジデント」に乗り組み、大西洋で米英戦争(1812年戦争)に参加。
- 1813年 任官
- 1814年12月 ガン条約調印の日にジョン・スリデルの娘と結婚。戦後、休職
- スリデル所有船の船長としてヨーロッパ航路に従事
- 1821年 現役復帰 少佐に昇進
- 「シャーク」艦長
- ブルックリン海軍工廠付
- 1824年 地中海戦隊(司令官ロジャース)旗艦「ノース・カロライナ」副長
- ボストン海軍工廠勤務
- 「コンコード」艦長
- 1833年 ニューヨーク海軍基地司令 大佐に昇進
- 蒸気機関実験艦「フルトン」艦長
- 1841年 ニューヨーク海軍工廠長 ノース・カロライナに代将旗を掲げる
- ニューヨーク在勤中、蒸気船海軍の建設に尽力
- 1843年 アメリカ戦隊司令官
- 1845年 メキシコ湾戦隊副司令官兼ミシシッピ艦長
- アメリカ・メキシコ戦争に従軍
- 1847年 メキシコ湾戦隊司令官
- 6月14日 汽走砲艦「スピットファイア」(旗艦)「ヴィクセン」「スコーピオン」「スカージ」に各10隻の舟艇を曳航させタバスコ河遡行作戦を開始
- 郵船総監
- 1852年 東インド戦隊司令官 旗艦「ミシシッピ」に乗艦し、ノーフォークを出航
- 東回りで中国、沖縄、小笠原、日本へ航海
- 1853年7月8日(嘉永6年6月3日) 東インド艦隊の軍艦4隻を率いて浦賀に来航
- 7月14日 久里浜に上陸 戸田伊豆守、井戸石見守にフィルモア大統領からの国書を手交
- 7月17日 江戸湾を退去
- 1854年2月13日(嘉永7年1月16日) 再来日
- 3月8日 神奈川に上陸
- 3月31日(3月3日) 横浜で日米和親条約を締結
- 下田・箱館に回航
- 9月 香港で戦隊を解散
- 帰途、オーストラリア、オランダを訪問
- 駐支公使の推薦を受けるが実現しなかった
- 海軍能率委員 政府の委嘱で「日本遠征記」三巻を刊行
- 刊行後、海軍能率委員を免ぜられ、待命
- 1858年3月4日 リューマチからくる心臓発作で死亡
- 州葬が行われ、ニューポートの墓地に父と共に埋葬されている
- 教科書等で紹介される写真は1848年にダゲレオタイプと呼ばれる写真機で撮影されたもの
オリヴァー・ハザード・ペリー
Oliver Hazard Perry
1785年生、1819年8月23日没。
ロード・アイランド出身。
アメリカ海軍軍人。
クリストファー・ペリーの長男。
マシュー・ペリーの兄。
1812年戦争に従軍
ロード・アイランドで小型砲艦建造の監督にあたる
1813年 エリー湖畔で湖上艦隊の建設にあたる
3月 150人の水兵と狙撃兵を率いてエリー湖に進出
9月10日 エリー湖の戦い
戦功により准将に昇進
戦後、司令官として地中海や西インド諸島海域で活躍
1819年8月23日 黄熱病のためトリニダードで死去。享年34
新規作成日:2002年2月26日/最終更新日:2002年2月26日