松平定信
松 平 定 信 〜まつだいら さだのぶ〜 (1758-1829)
宝暦8(1758)年生、文政12(1829)年没。幼名は賢丸。号は楽翁、花月翁、白河楽翁。越中守。田安宗武の7男、白河藩主松平定邦の養嗣子。
天明の大飢饉の最中に家督を継ぎ、藩政の再建に成功した。その手腕をかわれ、天明8(1788)年、老中首座に就任、寛政の改革を断行した。祖父吉宗の享保の改革を模範とし、勤倹尚武を精神的支柱として棄捐令・囲米の制・風俗の匡正等を行う。また寛政異学の禁を施行、人足寄場を設置。一応の成果をあげたが、放漫財政の田沼時代のアンチテーゼとして出発した寛政の改革は、過度な禁止政策が目立ち、奢侈に慣れた武士・庶民の不評をかい、その厳格な緊縮政策を嫌われ、尊号一件を契機に老中職を辞した。幼少より学問を好み、『宇下人言』、『集古十種』、『花月草紙』等多くの著作をなした。
桑名藩
幕末、会津藩と共に、幕府側先鋒となっていた。
必勝船
寛政・文化(1789-1817)年間
松平定信が考案した武装船の模型。
船首部に、火薬を詰めた「棒火矢」を装備し、外国船に接近して発射する。
側面で「棒火矢」を発射すると、発射の振動で転覆する恐れがある為、側面には装備していないとされる。
が、「棒火矢」の装備スペースの都合が大きいと思われる。
定信は、老中退任後も、海防に意欲を持ちつづけ、いくつかの武器を考案している。
桑名の鎮国守国神社 (鎮国神社)に、模型がある。
雨中早撃抱火隶
寛政・文化(1789-1817)年間
松平定信が考案した武器。
小型の翼を持つ、ロケット弾。
中心を貫く導火線を溝に挟み雨で濡れない様に工夫されている。
発射すると、後部が外れ、ロケットのように飛翔し、先頭の弾頭部が命中し、爆発する。
桑名の鎮国守国神社 (鎮国神社)に、模型がある。
抱早打矢籠
寛政・文化(1789-1817)年間
松平定信が考案した武器。
手筒から発射する火矢で、矢の先に火薬が充填されている。
発射すると、ロケットのように飛翔し、弾頭部が命中し、爆発する。
桑名の鎮国守国神社 (鎮国神社)に、模型がある。
鎮国守国神社 (鎮国神社)
桑名城跡九華公園内にあり、松平定綱公と松平定信公を祀る。
天明4年(1784)白河(現福島県白河市)城内に松平定綱(鎮国公)を祀ったのが始まり。文政6年(1823)白河から桑名へ移封にともない、当社も桑名城本丸に移る。のち松平定信(守国公=楽翁)をも祀る。明治維新後はしばらく本丸の外に移っていたが、明治40年(1907)本丸跡の現在地に移った。大正8年(1919)に現拝殿が完成。昭和9年(1934)に楽翁公百年祭記念宝物館が完成。戦災を免れたので、拝殿・社務所など戦前の姿を残している。主な社宝に「集古十種版木」、「松平定信像」、「類聚名義抄」、「松平家具足」、「脇差 来国光」、「刀 銘鳴神」や、舞楽面、楽器、定信考案模型類、各種の古地図・古文書などが多数ある。また境内に楽翁歌碑がある。宝物館は5月2〜3日の大祭日に一般公開されるが、それ以外の日は、あらかじめ申請をし、許可がある場合に限られる。毎年5月2日・3日には例祭の金魚祭が行なわれ、金魚みこしや屋台で大変に賑わう。
所在地 桑名市吉之丸 TEL 0594-22-2238
新規作成日:2002年11月25日/最終更新日:2002年11月25日