石高と兵備

徳川幕府 旗本八万騎、800万石の殿様 などと言われる。
実際はどうだったのだろうか。

加賀100万石の大大名というが、100万石全てが殿様の収入ではあるまい。
大企業の社長の報酬とは、必ずしも一致しない。

大名の場合、藩としての、一つの組織体であり、これが、今日の「企業」に相当する面もある。
藩の石高は、企業の総売上であり、相当の経費も含まれている。
藩主、社長の取り分が多いとしても、全てというわけではない。

加賀100万石の場合でも、1万石単位の家老がいるし、家臣の禄高を合計すれば、残りは幾らもない。

1石は、人間1人が一年間に食べる米の量と言う。
もちろん、贅沢できるものもいれば、搾取されて麦、粟、ひえ、などで暮らす人々もいるわけだから実際は違いがあるが。

で、10万石の藩は、領民10万人を抱えることになるだろう。
これは、米を食とする原則値である。
この10万人は、老若男女の合計であり、士農工商の総計である。
現代、この中の有権者は約75%であり、投票率は4割程度であるから、3万票の得票は、10万石の藩主に相当するかもしれない。
江戸時代と比べて、人口は3,4倍になっているから、単純に、地域との相関はないのだが。

禄高
領地から、年貢の取り立てなどを行う。原則として「四公六民」といって収穫の四割が収入になる。例えば三千石の旗本は実収入は千二百石となり、三千石の方を「表高」と呼ぶ。
これは「家禄」と言いい、家に付いた禄(祖先の勲功、本人の働きにより付いた禄)で、何か役職に就いたときには「役高」と言って就任中にだけ支給される役目を果たすための経費のようなものも支給される。つまり家禄と役高の二重取りであったが、八代将軍吉宗以降は、役職によって役高を決め、家禄がそれに満たないときだけ不足を支給した。例えば町奉行は三千石と決められ、家禄千石の者が務めるなら不足分二千石を支給し、三千石の者が就任しても一石の追加もない。

知行取。領地石高。
蔵米取、切米取。蔵米取1俵 = 知行取1石
現米取。現米取1石 = 知行取2.5石
扶持取。扶持取1石 = 知行取5石

1石は10斗(約180リットル) = 米2俵半。


二百石の旗本を例にすると、二百石の実収入は、「四公六民」で八十石。一石は約140sなので11、200s。10sの米が4,000円として年収4,480,000円。
食べる分は換金しないので、換金する額はもっと少なくなる。
また、家臣の報給も全て含めての月収であり、よほど切りつめねばならない状況であったと思われる。
ただ、お米の価値は、産業構造の異なる現代とは、必ずしも一致しないので、単純な換算には無理がある。



軍役の例
4000石: 侍16、足軽20、他44、馬11
3000石: 侍13、足軽18、他26、馬9
1800石: 侍9、足軽11、他16、馬6
1000石: 侍4、足軽3、他5、馬1
600石: 侍3、足軽1、他4、馬1
300石: 侍2、足軽1、他5、馬1
200石: 侍2、足軽1、他2
100石: 侍1、足軽1、他1

侍: 主人、若頭、鎧武者
足軽: 槍、弓、鉄砲
他: 中間、馬の口取、槍持、挟箱持
馬: 兵馬、替馬、荷駄馬
武器・弾薬・食糧をすべて持ち歩く必要が有った。

豊臣軍の小田原攻め時の動員数は、各大名の禄高に応じて、100石あたり5人の軍役が基準であった。
五代将軍・綱吉は「軍役条文化」を発令し,1万石当たり200人の軍役を割り当てた。

江戸幕府の定めた軍役(馬上武士の従者や兵站部隊の数は不明)
慶長19年
五千石: 馬上7騎、鉄砲10挺、弓5張、槍50柄、旗3本
元和2年
一万石: 馬上14騎、鉄砲20挺、弓10張、槍50本、旗3本
寛永10年
一万石: 馬上10騎、鉄砲20挺、弓10張、槍30本、旗2本



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新規作成日:2003年1月3日/最終更新日:2003年1月3日