白瀬矗と開南丸
白瀬矗
しらせ のぶ
文久元年(1861年)6月13日、秋田県由利郡金浦村の浄土真宗浄蓮寺住職、白瀬知道・マキエの長男として生まれました。
幼名は知教(ちきょう)。
白瀬矗陸軍中尉は当初北極点到達を目指していましたが、計画中にペアリーが北極
点に到達(1909)してしまったため、目標を南極に切り替えました。
一行27名は明治43年11月29日に開南丸で東京芝浦を出航。何度か流氷とブリザードに阻まれながら、1年2ヶ月をかけてここまで到達します。しかしついにこれ以上の南進を断念。白瀬以下5名の突進隊が明治45年(1912)1月28日、南緯80度5分の地点に日の丸を立てて、そこを大和雪原(やまとゆきはら)と命名しました。
『一歩を進むあたわず。進まんか、死せんのみ。使命は死よりも重し』
当時南極到達を目指していたのは3隊。ノルウェーのアムンゼン、イギリスのスコット、そして日本の白瀬です。白瀬が南進を断念した時、約1月前にアムンゼンが南極点に到達しており、ほんの10日前には2番手のスコットが南極点に到達していました。
白瀬中尉はそういう訳で南極一番乗りは果たすことができませんでした。しかしこの2ヶ月後にはそのスコット隊が帰路遭難しており、白瀬中尉の決断は結果的には大変素晴らしいものであったといえるでしょう。
なお白瀬中尉はこの南極探検の費用の借金を返すため、このあと一生苦労したといいます(国会は白瀬中尉に10万円の経済的支援を約束していましたが、実際には1円も支払われませんでした)。
現在南極には彼の名前をとった白瀬海岸、彼らの乗った船の名前をとった開南湾などといった地名が残されています。
そしてそれからちょうど45年後1957年の1月29日にはオングル島に昭和基地が建設され、また色々なドラマが繰り広げられます。この1月29日が「南極の日」になっています。
開南丸
204総トン
明治43年(1910) 10月 199トンの木造帆漁船「第二報效丸」を購入。
11月21日 「第二報效丸」を「開南丸」と命名。18馬力の補助エンジンを装備して、品川沖で試運転。
命名は、東郷平八郎によるものと言われる。
11月29日 「開南丸」芝浦を出港し、南極へ。
海星と帆装は異なるが、同程度の帆船と思われる。
海星 KAISEI
所 属/NPO法人日本セイルトレーニング協会
全 長/46.0m 全 幅/7.6m
マスト高/32.0m 喫 水/3.8m
総トン数/180トン
白瀬南極探検隊記念館
秋田県金浦町黒川字岩潟15−3
TEL 0184-38-3765
新規作成日:2003年2月24日/最終更新日:2003年2月24日