瀬戸口 藤吉
瀬戸口 藤吉
1868年(明治元年)、琉球王朝に対する接待係を務める薩摩藩士・瀬戸口覚兵衛の家に生まれる。
1880年、覚兵衛の実弟であり、東海鎮守府警吏補であった大山軍八の養子となって大山藤吉と名を改め、東海鎮守府が置かれていた横浜に移る。
1882年、海軍の第2回軍楽公募生に応募し採用される。
1895年、海軍軍楽師に任ぜられたが、その昇任試験の時、いくつかの問題に難渋し諦めかけた時、試験官であった岡田啓介に励まされ、見事合格したというエピソードがある。
1896年、横須賀で旅館の次女と結婚。
1897年、「軍艦の歌」を作曲。
1900年(明治33年)「瀬戸口家に戻る。「軍艦の歌」を吹奏楽による行進曲に編曲した『軍艦行進曲』を観艦式で初演奏。
1903年 海兵団付楽長として軍艦八雲、三笠、敷島、出雲に乗艦。
1904年に海軍軍楽長(軍楽隊長)に昇進。この年勃発した日露戦争には出陣せず、日本海海戦後の6月14日に連合艦隊旗艦「三笠」に乗り組んだ。
9月11日、「三笠」は艦内の不手際により佐世保港で爆沈したが、藤吉は直前に上陸していて危うく難を逃れた。
昇進後は同郷の先輩でもあった伊集院五郎の意見によって「海軍軍楽隊への弦楽の導入」「東京への軍楽隊の分遣隊設置」「海軍軍歌の整備編纂」の3点に尽力した。
1906年 アメリカ殖民300年記念万国陸海軍式典に楽長として派遣され、アメリカ、ヨーロッパ各国を訪問。その際聴いた交響管弦楽団の演奏に感動し以後管弦楽の必要性を強く感じ、その結成に力を尽くす。
1910年 日比谷公会堂で管弦楽団による演奏会を開催。「軍艦行進曲」を管弦楽団用に編曲した「軍艦マ−チ」を演奏し観衆に大きな感動を与えた。
1912年 (大正元年)明治天皇御大葬儀をはじめその後の照憲皇太后御大葬儀、大正天皇御即位大禮において指揮を揮った。
1917年に50歳で海軍軍楽特務少尉?を定年退官して後は東京帝国大学やアマチュア・オーケストラで指導するなど、事実上楽壇の表舞台からは退いた。
1937年に愛国行進曲の作曲公募第1位となり再び脚光を浴びることとなったが、この頃よりリウマチを患い歩行が著しく困難となった。
1940年の軍艦行進曲40周年演奏会に参加の他、海軍軍楽隊出身者で組織された海洋吹奏楽団の副団長なども務めた。
1941年(昭和16年)には新しく創刊される雑誌「吹奏楽」に一文を寄せる予定であったが、その直前の11月8日に亡くなった。享年74歳。
弟子はいないが、海軍退官後の教え子に菅原明朗がいる。
垂水市では彼の業績を讃うる為に毎年「瀬戸口藤吉翁記念行進曲コンクール」が催されて居る。
主な作品
行進曲
- 軍艦(軍艦行進曲)
軍艦マーチ.
- 敷島艦行進曲(敷島艦の歌)
- 艦船勤務(作詞・大和田建樹)
- 日本海海戦(作詞・大和田建樹)
- 日本海夜戦(作詞・大和田建樹)
- 国旗軍艦旗(作詞・大和田建樹)
- 黄海海戦(作詞・大和田建樹)
- 閉塞隊(作詞・大和田建樹)
- 第六潜水艇の遭難(作詞・大和田建樹)
- 威海衛襲撃(作詞・大和田建樹)
- 楠公父子(「作詞・大和田建樹」とする資料もあるが、詳細は不明)
- 告別行進曲(原曲・蛍の光)
- 東京頌歌・東京行進曲(同名の流行歌とは別の曲)
- ラヂオ行進曲
- 野球行進曲
- くろがねの力・体育大行進
- 軍艦旗の歌
- 愛国行進曲
愛国行進曲.
- 婦人愛国の歌
- 乃木大将
- 若宮殿下行進曲(伏見若宮殿下行進曲)
- 護れ太平洋
- 勇敢なる日本兵(編曲。ポピュラーな軍歌をメドレー風につなぎ合わせた接続曲で、似たような軍歌接続曲が多くある)
その他
- 水車
- 春の踊り(詩・竹久夢二)
- 野行き山行き
- 虫のダンス
- 谷間の小川
- 学習院五十周年記念歌
- 東都の流れ
- 沖の白帆(編曲)
- 越後獅子(長唄からの編曲)
- 六段(同上)
- 舌出三番叟(同上)
- 名大いなれ法政(法政大学旧校歌、現在は同大学行進曲)
⇒ 私の演奏^^
⇒ 行進曲・軍歌・海の歌
⇒ 軍艦マーチ
⇒ 愛国行進曲
新規作成日:2008年6月19日/最終更新日:2008年6月19日