船狂ち爺さんの「私の予科練記 追憶編」
ML帝国海軍倶楽部 に投稿されている、予科練のお話を、ご本人に了解を頂き、転載させていただく事になりました。
尚、「現在書いて居るのは、全く記憶を思い出しつつ綴っているところで、一切のメモも資料も無いまま、無鉄砲に思い出すままに書いていますので、資料的に責任がもてません。」とのメッセージを頂いておりますが、戦後50年を超えた今日、生の声として、当時を知るに十分な物と考えております。
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甲種飛行予科練習生第16期生の「船狂ち爺」です。
私の予科練記は、時系列で思い出した事柄を並べて投稿を続けてきました。
ここで、其の当時を追憶して、時代背景と私自信の思いとを書きとどめてみたく、追憶編を書かせていただきます。
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<<私の予科練記 追憶編 T >>
<育った時代 其の1>
『サイタサイタサクラガサイタ』『ススメススメヘイタイススメ』の文部省国定国語読本が、制定された年の尋常小学校1年生で、其の年昭和12年7月7日に、盧江橋事件でシナ事変が勃発しました。
町では、召集令状が来て、出征兵士が、毎月、歓呼の声で故郷の国鉄の駅頭で、壮行式の後、見送りの国防婦人会、在郷軍人会、小学生の万歳の声で勇壮に、出征して往かれました。
南京陥落、広東陥落、と戦勝気分がみなぎり、提灯行列に参加したりであった。
一方、この頃から、銃後という言葉があふれるようになり、新体制、物資統制令が次々と出されていき。衣料切符が無ければ、衣料も買えなくなり、商店には、店頭から次第に綿製、純毛製の商品が消え、代わりに、人絹繊維の製品が並ぶようになってきた。
巷間では、贅沢は敵だとか、銃後を守ろう、戦地の兵隊さんを偲んで頑張ろう、国民服・モンペの普及、隣組制度の充実組織化等など、戦意高揚運動が展開されていった。
しかし、s14〜5年頃までは、我々の生活では、衣類が人絹で、長持ちしなくなったことが困ったことで、日常生活は、左程不自由は無かったのではなかろうか。代用品利用が提唱され貴重な基礎資源の節約が叫ばれていた。女性の電髪と、華麗な洋装も、批判の的になりだした。
また、小学校では、団体訓練といって、中学年以上クラス全員が隊列を組んで、マーチのリズムで隊列を組んで校庭を歩く訓練が毎週実施されるようになった。
出征兵士の家、英霊の家には、標識札がかけられ、近隣のひとは、それらの家族に協力する様にとの指導もなされていた。
14~5年ごろには、大政翼賛会政治が始まり、真珠湾開戦の方向に潮流は流れていたのであるが、私達幼少の小学生は、その様な気配より、戦果発表にはしゃぐことや、、一方ABC包囲網のおかげで、物資が欠乏してくることに対する、反米英思想が当然のことの様に、映ってきていた。
s15年四年生になって(s16年五年のときであったかかも知れない??)、尋常小学校が国民学校と改称になり、それまで、尋常科何年と言っていたのが、小学何年生と言うようになった。
其の年は、皇紀2000年と言うことで、八紘一宇の精神で大東亜共栄圏の建設についての国民的精神の発揚のための儀式や式典が開かれた。
召集による動員や、青年は、志願兵に成ったり、軍需工場に就職したりで、農村部の働き手も少なくなってきており、商家生まれのね私達は、農繁休暇には、農業奉仕作業に駆り出されて、慣れない田植え、稲刈り等の仕事を手伝った。
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<<私の予科練記 追憶編 U >>
<育った時代背景 2>
戦時情勢は厳しさを増していた。
その様な時代の下で、7歳違いの妹と2人兄弟で、駅前旅館兼割烹旅館の家業を営む両親に育てられていた。父は、本文で紹介したように、海軍の水兵背活を9年余を経験し、厳格で几帳面な性格であった。
家業もそこそこであったので、左程贅沢は出来なかったが経済的には恵まれていたようである、
父は、私に、軍人なるように育てていた。私は、幼少の頃から、きかん気が強く、曲がったことに対しては、真っ向から噛み付く癖があり、子供だからと言って騙ししてあしらはれたりすると、噛み付いて、近所の大人を梃子摺らせていたようである。
就学以前から、私は、年長者と交わることが好きであった様で、自分より幼い者とはあまり遊んでいなかった。このことが、中学に進学してからも、それ以後今日までその様な性向はあるようで、そのことが、人生の中で相当影響を受けている。
私達の小さい頃は、『僕は、軍人になったなら、勲章つけて、剣下げて、……・・』といったような童謡みたいな歌に有るように、軍人になることを当然と言ったような育てられ方であった。
其の頃の子供の遊びも、戦争ゴッコや、皇軍将棋等て゛、軍人に関る物が多かった。当時教科書以外の読物を買うことは、大変なことであり、現在みたいに溢れるほど出版物は無く、たまに、友達が持っていると、まわし読みをして、むさぼる様にして読んでいた。私は、小学館の月刊学習誌と、小学生新聞の購読をしていたが、後に、少年倶楽部も買ってもらっていたが、当時の内容は戦争物が多く、中でも、南洋一郎の怪鳥艇や、田河水泡ののらくら物語り、冒険だん吉等の漫画も戦時色の強い読物を好んで読んでいた。
s14年ごろから、月一日は、戦争の日?記念日(後に毎月8日を大詔奉戴日とした。)を設けて、弁当も日の丸弁当を持っていくことになった。其の頃の、農村部の弁当は、梅干入りの弁当が日常であるのでたいした変化は無かったのであるが、私の様に商家の子供は、惣菜付きの弁当を予ては、持っていっていたので、其の日うっかりして、日常の弁当を持って居たりしたら検査で怒られなじられたものである。
巷間では、防空演習の訓練が始まっていて、警戒警報の下では、灯火管制が発令され、電灯にシャドー幕を付けて、灯火が戸外に漏れないようにした。父は、警防団(消防団の改編)の幹部でもあったので、地区の防空演習の先頭に立っていたから、喧しく、言っていた。
s17年の春季遠足で、登山を終え下山途中、空襲警報が発令され驚いたことが有る、それは、4月18日のドウリットルの渡洋爆撃であったわけで、警報をきいて、そくさくと5里ぐらいの帰途を急いだことを覚えている。
小学校の生徒指導も、小国民の練成と言った視点から、行事や教育がなされた。
中でも、心身鍛錬のための、寒風摩擦、示現流剣法による立木撃ち、少年団組織による団体訓練と言ったようなことを通じて鍛錬を課せられていた。
各担任の先生に恵まれ、両親の庇護の下、小学時代を終了したが、シナ事変の始まった年に小学生になって、戦局が進む最中で、世間は戦時一色の環境になって居た。
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<<私の予科練記 追憶編 V >>
<育った時代背景 3>
農村部の小学校から当時の旧制中学に進学するのは、クラスの中の一部に過ぎなかった。s18年私達が進学する年から、学科試験が廃止され、内申書と口頭試問試験での選抜方法に替わった。
私の母校は、歴史の古い学校であり、軍人学校志願者が多く、合格率も県下で上位校で、名門校であった。其の頃の、学園は、上下のけじめが厳しく、よく、上級生に、態度が悪いとか、何か言っては、鉄拳制裁を受けた。
学校には、陸軍の配属将校が派遣され、それに、教練の先生として、予備役の陸軍将校と下士官が在職していて、陸軍歩兵操典をもとに、軍事教練の時間があり、年1回管区連隊から、査閲があり、査閲官に、日常の軍事教練の成果を点呼査閲を受けていた。
私は、父の希望でもあったので、陸軍幼年学校受験補習コースに入り、放課後T~2時間の補修授業を受けることになったが、陸軍より海軍に進みたい私は、補習には熱が入らなかった、当然受験はしたものの不合格で有った。2学年のときは、補習組みには入らなかった。
夏休みになると、陸幼・陸士・海兵の先輩が、母校で、軍人志望の後輩と歓談する行事が催され、陸軍の四角四面のばね仕掛けみたいな挙手の敬礼より、七つボタンの制服で短剣を吊った海兵の斜め前から手を上げての挙手の敬礼がスマートに見えたものである。ますます、海軍志願の思いを募らせていった。
s18年の3月であったが、海兵志望の従兄弟が、予科練甲12期生として、入隊が決まった友と、別れ旅行で、私のうちを尋ねてきてくれた。其のときまでは、予科練のことはあまり知らなかったのである。そして、従兄弟はその年の12月に江田島の海兵に入校していった。
私も、何とかして、海軍に入りたいという思いは募り、当時は、中学4年にならなければ、海兵の受験が出来ないので、それまで、学習に励み、受験の難関に当たらなければと考えていた。
太平洋戦争も、18年ごろから次第に重苦しい空気が漂い始めてはいたが、我々軍国少年は、あまり、悲観的な見方はしないで、早く、戦争に参加して必ず戦勝に導くんだと言ったような気概を持っていた。
巷間には、陸軍少年飛行兵・海軍志願兵のポスターや、戦意高揚を訴えるポスターが掲示され、青壮年のもとには召集令状、兵籍の無い者には、徴用令状が、それに、女子の遊休とみなされた人にも動員令がきて、周りは戦時色が厳しくなっていた。
映画は、戦意高揚の内容の物が多く、それらの中で予科練を題材としたものもあり、刺激を受けていた。
先輩が、陸士・海兵や予科練に合格して、別れの壮行会に招待されたりしていて、2学年に進んだ、学校でも、英語の時間が半減され、其の結果英語担当の教諭が代数を数学の教諭替わりに授業を受け持つようになった。私のクラス担任も英語の教師であったが、数学時間も持たされるようになって、大変苦労された様である。
其の頃になると、陸軍も海軍も志願年齢を引き下げて、多くの青少年に志願を勧め動員体制を強化推進いしていて、競い合っていた。
隣町には、新設された海軍航空基地があり、飛行練習隊が配置され、赤トンボが飛び交っており、汽車通学途次、七つボタンの制服を着た飛練の練習生が移動するのに遭ったり、故郷にある、温泉地で一晩の休養を取って基地に帰る飛行服姿の海軍軍人に会ったりして、はやく、海軍に入りたい気持ちが高揚していった。
また、高台に在る隣村でも、海軍航空基地の造成が始まり、隣近所の部落にから、順番で勤労奉仕で飛行情整備作業に駆り出され、朝夕の通学列車は超満員のすし詰め列車となっていた。我が校には、海軍設営隊が駐屯するようになり、校庭には、対空機銃陣地が構築されたり、理科教室の廊下には、通信機が置かれ、通信兵が送受信に励んでおり、修養道場とし利用していた、和風建物には、隊の本部が置かれていた。
戦局の激化を、我々も感じる様になっていた。学校教育も戦時色が強くなり、一人でも多く陸士ヌ?:ぢ海兵の合格者を増やすための努力がなされていた。生徒も、軍人学校のほかに理科系の高等専門学校に進む者には、海軍の委託学生制度の受験を目指す者も多かった。
2年の1学期の終わりになった頃、クラス担任から、海軍甲種飛行予科練習生制度が変わり、2年在学中から志願できる様になったので、希望者を募ることに成ったと知らされた。
これを聴いた私は、咄嗟に志願したいと思った。海兵を受験するまでは、4年まで待たなければならないし、父は、陸軍に入ることを薦めるに違いないと思って、両親に無断で願書を出し田。それから入隊までは、既に書いたとおりである。
当時は、配属将校に、睨まれると、将来軍隊志望の際不利な扱いを受けることがあるとのことで、学校全体教師も生徒も、配属将校の鼻息をうかがうような雰囲気も在った。
私のクラスから、数名が予科練の志願を申し出たことから、担任も面目を保てられた様で、その様な、世相の風潮であったことが今、思い出されてくる。
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<<私の予科練記 追憶編 W >>
<私にとっての予科練>
S5年生で、軍隊経験を持つものは、数が少ない、軍隊経験者はS6年生画最年少写である。その中で、私は、短い期間ではあったが、予科練生活を経験した。今になっては、それが誇りにも思え、貴重な体験であったと思っている。
予科練を志願した頃は、当時の映画で描かれていた華々しい世界をイメージし、憧れていた。
入隊してみると、現実は、格差があることが段々判ってきた。それでも、憧れて志願してきた予科練であったので、希望とプライドを心に秘めて、頑張っていた。
『人も嫌がる軍隊に志願してくる馬鹿も居る』と言った、戯れ歌に在るように、軍隊は、ユートピヤではなく監獄か奴隷社会にに近い存在でもあった。軍隊生活は、軍律厳しく過酷な生活を求められることは、承知の上で志願したのであるから、厳しさは当然と思って我慢も出来た。
しかし、下士官教員による、罰直の中に、これほどまでもしなくてもと思はれるようなこともあったり、只、頑強な精兵を育てるためとはいえ、練成は厳しく、時として、不合理な言いがりみたいな罰直を受けるとき、落胆したり、嘆いたりしていたが、歯を食いしばって頑張り通せたのは、激励して送り出してくれた、家族や故郷の人の人々を思い出して、自分を鞭打って遣り通したような気がしている。
練成カリキュラムも戦時急造練成型に変更されており、長い伝統の海軍軍人育成の美風も廃れていた。其のことは、日課や、待遇、設備もお粗末なものになり、士気も荒荒しい雰囲気になっていたようである。
予科練教育中止の後、目まぐるしく移動と編成替えを経験した、我々は、落ち着いた日も無くして終戦を迎えたわけで、なんだか、作業要員みたいに、あの現場、この現場と渡り歩いたような感触が残っている。
しかし、短い期間の軍隊生活では在ったが、甲種飛行予科練習生としての誇りは、胸に秘め、恥ずかしくない行動を取ることで、屈折した心中を慰めていた様にも思う・
どの世界でも、要領の良い者は、楽をするもので、私は、父が、要領を遣うな、真面目に勤めよと教えられており、私自身の性格も正直なほうであったので、要領を使うことは潔しとしなかったので、馬鹿が付く正直を貫いて、いささか、損な役割も多々在った。
それも、古き良き時代の海軍の伝統が廃れたためでも在ったろうと思っていた。
そもそも、軍隊は公明正大で正々堂々と使命を果たしていくのが軍人の本分と信じ疑わなかったが、我々が経験した、予科練生活は、少しずれていた様にも思える。
当時は、戦局悪化し、総国民臨戦体制であったのであり、我々は本気で生命を賭して国家に殉じ様と決意していた。本文でも書いたが、犬死だけはしたくなかった。自分が肉弾としてやるなら、何らかの戦果が上がることを信じられるものなら、どのような配置でも依存は無いと言った心境で居た。
入隊中は、戦況についての、情報は、断片的では在ったが、どこからか、伝えられていたがそれも、微々たる量で我々は、想像をめぐらしながら期友と話題にしていたが、娑婆の情報は皆無に近く、日本の国土が空襲により壊滅状態になっていることは知らなかった。ましてや、駐屯地の近くの、長崎の原爆被害も全く知らされていなかった。
短期間ではあったが、過酷な訓練と課業を耐え抜いたことを思い出すと、今日でも、どんなことにも耐えられそうであるが、それが難しいのである。軍隊と言う環境は、極限の力を絞り出させる何かがあったのてあろうと思いを馳せるこの頃である。
戦後、軍国主義反対の運動家が、軍人までも蛇蝎のごとく誹謗しているのを聞いて、憤慨したものである。我々は、国の存亡に、祖国の礎と成らんと滅私奉公の純粋な気持ちで志願したのに、只一部の軍人が過ちを犯し、人道と倫理に悖るからと言って、蛇蝎のごく言われ扱われることに対し屈辱と怒りに駆られた。
戦争を賛美する者ではない、世界は、戦争は罪悪と言いながら、経済戦争、宗教戦争、民族戦争、覇権争いと、戦後50年戦禍は絶えない。人間社会が争いの無い世界を作るまでは、今から、どれほどの年月がかかるか、目安さえ建てられない現実を考えるとき、わが国の安全と存立は、どうなるだろうとの危惧が、何時も心の中によぎります。
わが国では、平和と戦争反対を掲げれば免罪符の様に、 どんなことを言っても喝采といった風潮が見えるのは、残念に思う、現実的に戦争という事件は、起こりうるのであり、わが国だけが埒外に置かれ、何時までも蚊帳の外に居られる保証は何一つ無いと思う。
戦争反対と、危機管理の体制を考え対処することを混同して、国防に無関心であったり、何も構えないのはどうしてだろう心配して止みません。
私達は、戦場の第一線には立ちませんでしたが、先輩は、戦場で懸命に任務に従事し苦労を重ねてこられましたが、戦後の軍隊批判に嫌気がさされたのか、あまり、戦場の体験を話してもらえないで、亡くなり話を聴く機会もなくなりました。
少しでも、戦場には参加の経験の無い我々でも、国に殉じ様とした精神は語り継げるのではなかろうかいや、語り部として少しでも伝えなければと言った気持ちで投稿してきました。
勿論、私の考えを押し売りする気持ちは、毛頭も有りません。ただ、その様なことも有ったかと判っていただけるだけでも幸いと思っています。
S51年に、熊本で九州甲飛16期生大会が開催され、各県が順次当直県を引き受け、毎年大会が会されて、同期の友と語合うとき、何時も我々には、其の時代のことを、語り継ぐ役割があるのではなかろうか、最後の予科練生としての責任であろうと話し合っています。
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船狂ち爺さんの連絡先
E-Mail sk_kawa@d1.dion.ne.jp
新規作成日:1998年12月26日/最終更新日:1998年12月30日