2410 清水港、沼津 AGB5003しらせ、地球観測船ちきゅう

2410 清水港、沼津観測記 平成30年8月24日 金曜 雨/風 9:55 〜13:49

今回は、陸上自衛隊 富士総合火力演習で御殿場へ来ており、演習実施日の間にいちいち東京まで戻るのも面倒なので、中日の消化。
例年、演習間の日は、箱根芦ノ湖の遊覧船を見に行っていた。
が、2015年は箱根大涌谷が噴火警報でイマイチ状況が。。。と、2015/8/11放送の「空から日本を見てみよう+」で、富士山(三島〜裾野〜富士山)のことをやっていて、その中で、ぐりんぱ/M78ウルトラマンパーク をやっていて、調べていると、富士サファリパークもあるようで、行ってみた。
2016年は、演習日程が異なり、中日が1日だけなので、どうしようかというところだが、利用のホテルで、自転車を貸してもらえそうなので、少々脚を伸ばして、秩父宮記念公園、平和公園、東山旧岸邸 あたり。
2017年は、平成18年8月25日以来の河口湖自動車博物館へ。
そして今回は、当初、ちょうど、イギリス海軍 L14 ALBION(アルビオン)寄港に合わせて、日英統合水陸両用作戦訓練が実施されるようだったが、、、台風の影響で中止。。。。間が空いたものの、お天気も悪そうで。。。。
と、

6:35起き、6:45朝食、8:05出発。
小川さんの車で、清水港へ。平成16年8月以来だ。
AGB5003しらせは、9:30頃の接岸の気配だったが、途中渋滞で、当初予定の9:15頃には現着できず、ちょうど接岸済。
9:55-10:16 デッキと岸壁から写して、作戦終了。
ついでに、清水港の船たまりを一巡で10:30。
続いて、沼津沖の、地球観測船ちきゅうへ。
11:30 富士川SAで、昼食
伊豆縦貫道から、三津へ。ここは、以前、元北欧の大型ヨット(ステラ・ボラリス☆)を係船していた、平成16年8月27日以来。
北岸沿いを、12:49から13:15大瀬崎近くまで行って、作戦終了。
13:49長浜城跡付近に、安宅船(あたけぶね)のモチーフがあった。

15:30ホテルへ。
17:30 ラーメン屋で夜食。

〜23:20データ処理。

今日もTDSのダッフィーくん、シェリー・メイちゃんのぬいぐるみを連れて行って、いっしょに撮影。今日のお洋服は迷彩服/陸自仕様。

今日のレンズのラインナップは、18-140,150-500,。
D7100/18-140, (D90),
撮影枚数約200。 うちのダッフィーくんが10。


[清水港]
(日の出船溜まり) ドーントレッダー、オーシャンプリンセス、ベイプロムナード。入国管理 はごろも。CL159 みほかぜ、CL14 ふじかぜ。パイロット艇。業務艇 ひので、静岡県警 警備艇 静7 するが。渡船 ケー・エス、フェルケル。
(日の出埠頭) AGB5003しらせ
(カナサシ) 漁業取締船 海嶺

[沼津沖]
地球観測船 ちきゅう。
フェリー駿河。
PM30 かの。


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清水マリンビル(港湾会館清水日の出センター)
〒424-0922 静岡市清水日の出町 9番25号
0543-53-2311

◎スカンジナビア (0559-42-2111) 静岡県沼津市西浦木負767
元北欧の大型ヨット(ステラ・ボラリス☆)を係船し、ホテルとしていたが、レストランのみとなっていて、営業終了。回航途上、和歌山沖で沈没。

長浜城跡(ながはまじょうあと)
この城郭は、戦国時代関東一円を治めた北条氏の水軍根拠地、重須湊を守るための城と考えられている。 北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、興国寺城から堀越公方足利茶々丸の館を急襲し、韮山に城を構え戦国大名としての第一歩を踏み出した。その後小田原を手中におさめ、二代氏綱・三代氏康の頃には領地を武蔵から下総まで広げ、里見氏と激しく対立した。北条氏は三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐する一方、今川義元亡き後の駿河に侵入してきた武田氏に対しても、伊豆の水軍を組織しその脅威に備えた。その伊豆における北条水軍根拠地の一つが、この重須湊・長浜城である。 このような情勢の中、天正7年(1579)には北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守が長浜城におかれ、翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われた。戦いの結果は必ずしも明らかではないが、武田氏が織田信長に滅ぼされることで、一応の決着を見ることになった。その後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態におかれた。しかし、北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原の川岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山開城と共に廃城となったものと考えられている。

また、北条水軍が小田原に集結した後の長浜城を守ったのは、在地土豪大川兵庫を中心とする地元住民だった。その後兵庫の子孫はこの地の津元(網元)として栄え、大川家に残された古文書は、「豆州内浦漁民史料」として近世漁業の実態を知る上で貴重な材料となっている。

この長浜城は通称城山と呼ばれ、以前は旧財閥の三井家の別荘が建っていたが、昭和40年代に取り壊された後は荒れるにまかされていた。昭和60年には市教委による詳細分布調査が実施され、4つの曲輪と15の腰曲輪の他、曲輪上の土塁跡や6基の掘切等が確認されている。曲輪の一つ一つは小規模であるが、戦国時代後半の特徴的な防御構造を見ることができる。 その後昭和63年に国の史跡に指定され、平成6年度までには土地の公有化も完了し、平成7年度より保存整備に着手し、平成26年度に整備が終了している。平成27年度に史跡公園としてオープンし、約400年前の姿が復元された城跡を公開している。同年には調査と整備の成果をまとめた報告書が刊行されている。なお、この城跡は「ぬまづの宝100選」に選ばれて いる。


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新規作成日:2018年9月12日/最終更新日:2018年9月12日