アルマダの海戦

1588年7月21日〜30日「アルマダの海戦」



両軍の兵力
ハワード・エッフィンガム率いるイギリス艦隊(197隻、兵員約1万5千名)
メディナ・シドニア率いるスペイン艦隊(130隻、兵員約3万名 ガレー船の奴隷等含む )



イギリス艦隊の編成
総司令官ハワード率いる女王艦隊(34隻、旗艦はアーク・ロイヤル)、ロンドン艦隊(30隻)、
ドレーク艦隊(34隻、旗艦はリベンジ)、ヘンリー・セイモア艦隊(23隻)
トーマス・ハワード艦隊(武装商船、糧食船、義勇船、計76隻、旗艦はゴールデン・ライオン)

イギリス艦の特徴
イギリス艦隊最大の戦艦は、千百トンのトライアンフ号でした。その他10隻足らずの大型戦艦は千トンから6百トンぐらいの大きさでした。イギリス艦は、スペイン艦に比べると龍骨が長く、船体は低く造られているので大洋を航海するのにより適しています。またこの特徴は戦闘中の操縦にも便利で、安定性もよいことから砲撃には有利でした。



スペインの無敵艦隊(アルマダ)
スペイン艦隊は、1571年にレパントでオスマン・トルコ艦隊を破り、1583年にはアゾレス諸島でフランス艦隊を壊滅させて、世界無敵を誇る艦隊となります。そして1586年3月、「レパントの海戦」で活躍したサンタ・クルーズ候が、スペイン王フェリーペ2世に自信満々でイギリス侵攻計画を提出したのでした。

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戦闘経過

7月21日の戦闘

イギリス艦隊は、真夜中の午前1時にスペイン艦隊を発見するとすぐに風上側に進出します。そして日の出とともにスペイン艦隊の右翼(イタリア隊)に後方から接近して砲撃を開始しました。スペイン艦隊のイタリア隊を追い越したイギリス艦隊は、反転すると今度はスペイン艦隊のビスケー隊を前方から攻撃し始めます。この猛攻撃にビスケー隊は混乱し、副司令官レカルデの乗艦サンタ・アナ号とグラン・グリン号の2隻だけが奮闘しますが、イギリス艦隊のドレーク隊に包囲されて猛砲撃を浴びせかけられました。これを見たスペイン艦隊総司令官メディア・シドニアが、副司令官を救うために駆けつけますが、既にレカルデの乗艦サンタ・アナ号は戦闘能力を失っていました。
またこの戦闘では、スペイン艦隊の財務長官と金庫を乗せていたサンサルバドル号が、事故のため爆発炎上して艦隊から離脱せざるをえなくなります。
スペイン艦隊がイギリス艦隊と初めて戦って認識したことは、イギリス艦は速力が早く、操縦が容易な上に砲手が極めて優秀なことでした。この事実はスペイン艦隊に大きな衝撃を与え、サンサルバドル号の放棄はスペイン兵の士気を著しく低下させました。

7月23日の戦闘

早朝、風上側に立ったスペイン艦隊総司令官メディア・シドニアは、商船5隻を従えたイギリス艦トライアンフ号が難航しているのを発見し、これをガレアス船隊に攻撃させました。イギリス艦隊総司令官ハワード自らがトライアンフ号の救援に向かうと、メディア・シドニア率いる16隻のスペインのガレオン船がこれを妨害しようと進み出ます。この時、シドニアはレカルデ副司令官の乗艦サンタ・アナ号がまたも包囲攻撃を受けているのを発見したため、予定を変更してこれの救援に向かいますが、シドニアの乗艦サン・マルティン号も50隻近いイギリス艦に包囲され激しい砲撃を受けるはめになってしまいました。1時間ほどの激しい戦闘の後、スペインのオケンド率いるキッパズコア隊が来援してやっとイギリス艦隊の包囲を解きます。
この戦闘においてもイギリス艦が速力で優位であり、たとえスペイン艦が風上側にいたとしてもイギリス艦は容易に風上へ移動できることが判明しました。またイギリス艦の大砲は大きくて射程も長く、砲手はスペイン艦が1発射つ間に3発も射てました。このようなことからスペイン艦隊は陣形を整えてもっぱら守りに徹し、機動戦は避けるべきであることに気づきます。スペイン艦隊が陣形を崩すことなく全艦が統一行動をとれば、接近して攻撃しようとするイギリス艦は多数のスペイン艦から集中砲撃を受けてしまいます。イギリス艦の大砲が射程で有利であっても遠距離射撃では敵艦に致命的な打撃を与えることは出来ません。そこでイギリス艦隊の戦術としては、スペイン艦隊を先に進ませて後方からこれを襲い、敵艦を1隻ずつ脱落させていく方法しかありませんでした。

7月24日
両艦隊とも補給のため戦闘行動は出来ませんでした。

7月25日
スペイン艦隊副司令官レカルデの乗艦サンタ・アナ号が難航しているところをイギリス艦隊のアーク・ロイヤル号とゴールデン・ライオン号が襲いますが、スペイン艦隊は3隻のガレアス船を使ってイギリス艦を撃退することに成功します。

7月27日
夜、カレー沖にスペイン艦隊が停泊しました。スペイン艦隊はここで食料と砲弾と弾薬を補給し、パルマ公の率いるイギリス侵攻軍(3万5千名)と合流する予定でしたが、オランダの封鎖艦隊によって妨害されてしまいます。オランダ艦隊は、パルマ公の輸送船団をブルージュの海岸沖で常時見張っており、イギリス侵攻軍の兵士たちが乗船しようとすればすぐにでも砲撃する構えを見せていたのでした。

7月28日
戦闘「カレー沖の海戦」
停泊中のスペイン艦隊に火船攻撃を決行することにしたイギリス艦隊は、百トンから2百トンぐらいの船を8隻選び出して、それらに燃えやすいものを満載します。真夜中を過ぎたころ、8隻の火船はスペイン艦隊に向けて放たれました。風と流れに乗った8隻は、極めて早い速度で敵艦隊に近づきます。スペイン艦隊は、イギリス艦隊による火船攻撃を予想していましたが、これほどの大きな船がまるで艦隊のように襲いかかってこようとは思ってもいませんでした。
スペイン艦隊の総司令官メディア・シドニアは、錨を捨ててあわただしく出撃しなければなりません。火船を避けるためバラバラに出撃したスペイン艦隊は、多くの船が予備の錨をも失い、海岸に沿って北東方向に漂流して行きました。

7月29日
戦闘「グラベリン沖の海戦」

7月29日
夜明け、スペイン艦隊の陣形は完全に崩れていました。イギリス艦隊は全力で敵艦隊の追撃を開始します。この戦闘でスペインのガレアス船隊司令官モンガータは戦死し、スペイン艦隊の中で最強最大のサン・ロレンソ号は舵やメインマストを失って座礁してしまいました。
午前9時頃から午後6時頃まで続いた砲撃戦でスペイン艦の3隻が撃沈され、2隻が行動不能になりました。戦闘時間が長い割に損害が少ないのは、当時の両艦隊に砲弾が残り少なく発射間隔が大きかったという事情があります。30日の朝までに4隻のスペイン艦が失われました。1隻は浸水で沈没、3隻が強風のためにゼーラントの海岸に押し流されたのです。
スペインの無敵艦隊は、今や17隻を失って、すっかり戦闘意欲を無くしていました。火船攻撃に使った8隻の他には1隻の損失も無いイギリス艦隊は敵艦隊の追撃を続行しますが、北緯56度付近までくると、もはやスペイン艦隊がイギリスに上陸する可能性は無いとして引き揚げることにします。イギリス艦隊の追撃を振り切ったスペイン艦隊には、新たな危機が迫っていました。補給不足から食料と真水が欠乏し、その上、嵐と疫病にも襲われたのです。堅いパンは腐ってカビだらけ、塩づけの肉と魚はありますが、それを食べれば喉が渇きます。しかし多くの水樽が破損していたため真水がほとんど残っていませんでした。

9月12日頃
スペイン艦隊は帰港しますが、船の数は66隻に減っています。なんと50隻近くの船が帰りの航海で失われてしまったのでした。うち35隻の運命がまったくの不明で、ほとんどが難破したと思われます。わかっているスペイン艦隊の損害は、溺死者は約8千名、壊血病やチフスなどによる病死者が約1万名にもなりました。難破の原因の多くは嵐のせいですが、乗員の多くが病気と過労で倒れていたことや、水を求めて無理な着岸を試みたということも難破の大きな原因となっています。


無敵艦隊

Armada invencible。
1588年、スペイン国王フェリペ2世がイングランド制圧のために派遣した艦隊に与えた呼称。
当時のイングランド女王はエリザベス1世。
艦艇131隻 1000tを越える大艦をそろえる。
兵員は2万4000 陸兵が約2/3を占める。
司令官は当初サンタ・クルス侯が予定されていたが、候の死去でメディナ・シドニア公が起用された。
5月 リスボンを出発
7月29日 イングランドの沖に到達
7月30日 プリマス沖の海戦
8月8日 グレイブラインの海戦
ハワード、フランシス・ドレーク、ホーキンズらの率いるイギリス艦隊(長射程砲搭載の小艦艇197隻)とのドーバー海峡での消耗戦に惨敗。
暴風のためにスコットランド北方を迂回してスペインに帰還。
スペインに帰還できた艦船は半数ほどで、兵員も多数を失った。
この敗北で、スペインは国際政治における発言権を弱め、イングランドの地位とエリザベスの支配は不動のものとなった。


チャールズ、ハワード・エッフィンガム

(1536年〜1624年)
イングランド貴族の最高ともいえるノフォーク公と同じ血筋であるハワード・エッフインガムは、女王エリザベス1世とも親戚の関係でした。1585年に海軍最高司令官に任命されましたが、当時のイングランドにおけるこの役職は、首相と海軍大臣と提督を併せたようなもので、実際の海戦の経験や能力については考慮されなかったのです。1588年の「アルマダ海戦」では、航海経験が豊富で指揮能力の優れたフランシス・ドレークを作戦本部長にして、ハワード自らは最高司令官として戦いに臨みました。すぐれた英知と才覚を持つハワードは善意の紳士でもあり、スペイン艦隊と戦った兵士や水夫たちに国庫の貧しいイギリス政府から十分な給料が払われないことがわかると、自らの財産を使って彼等に支払ってやったのでした。

メディナ・シドニア

穏やかな性格で野心など全くないシドニアが、スペイン艦隊の最高司令官に選ばれた理由は、単に彼がスペインの大貴族として社会的地位が高かったからでした。とうてい司令官の器ではないシドニアは、スペイン王フェリペ2世に自らその旨を書き送ります。「私にはこの仕事はまったく理解できませんし、また、それについて何の知識ももっておりません。」このように自分の無力を認めるシドニアを、スペイン王は無理やり最高司令官に任命し、部下から全く信頼されていないフロレス・デ・バルデスを参謀本部長に選びました。
1588年7月、イングランド艦隊との戦闘で苦境に立っていたシドニアは、彼の旗艦の側を通過していく船の甲板上に勇敢な指揮官オケンドを見つけると思わず叫んでしまいます「これから我々はどうしよう?もう何もかもおしまいだ!」。これは最高司令官が言うべき言葉ではなく、あきれたオケンドは次のように答えました。「私は最後まで戦いますよ、男らしく死にます。」
結局、シドニアがスペインにできた唯一の貢献は、5百万枚のマラベディー銅貨の寄付だけでした。

フランシス・ドレーク

(1545年〜1596年)
Francis Drak。1543年生?、1596年没。イギリス出身、イギリスの航海者・提督。
1570年〜1572年 エリザベス1世の特許のもとに私掠船を率い、西インドのスペイン領で海賊行為を行う。
1577年 女王の援助を得て、5隻を率いて世界周航に出発
1580年 帰国、イギリス人初の世界周航に成功 ナイトの称号を得る
1588年 スペイン無敵艦隊を撃破した時のイギリス艦隊副提督

1567年にホーキングについてメキシコ湾に遠征、奴隷貿易で成功したドレークは、しだいにスペインの船や植民地を襲う海賊として有名になります。イングランドとスペインは表面的には友好国でしたが、エリザベス女王はドレークなどのスペイン相手の海賊を黙認していたのでした。
1577年、ドレークは女王に謁見すると「スペイン本国を攻撃することはできませんが、植民地を襲ってスペイン王フェリペ2世を苦しめることはできます。」と述べ、それに応えて女王は言いました。「襲撃に失敗しても、イングランドは政治的な立場から貴方を見捨てるほかありません。」ドレークの艦隊はその年の11月にプリマスを出航して、翌年にマゼラン海峡を通過するとチリやペルー沿岸のスペイン植民地を略奪してまわり、遂にスペイン王の財宝を満載した宝船カカフエゴ号を捕獲しました。グアテマラの港グアタルコを5日間に渡って荒しまくり、メキシコの海賊討伐隊を簡単にかわすと太平洋を横断して1580年に帰港します。スペインから海賊ドレークを処罰するよう迫られていたエリザベス女王は、ドレークの乗艦ゴールデン・ハインド号に乗り込み、同行のフランス使節に剣を渡すと、ひざまずいたドレークの肩にその剣を当てさせ「立ちなさい。サー・フランシス・ドレーク」と呼びかけ、ナイトの称号を与えました。ゴールデン・ハインド号によって女王には30万ポンドが手に入ります。この額はイングランドの国庫歳入よりも多かったのでした。
1581年にはプリマスの市長になったドレークですが、スペインとの国交悪化で再びスペイン領を攻撃します。1587年、カディス湾でスペイン艦隊を襲撃して、翌年の「アルマダ海戦」ではイングランド艦隊の実質的な指揮をとり、スペイン艦隊を壊滅させました。1594年からは西インド諸島を襲撃しますが、スペイン軍の守備が固いため思うようにいかず、1596年、何の成果もあげられないうちにドレークは赤痢で倒れてしまいます。最後は武人らしく死にたいと言うドレークは、病床に鎧を持ってこさせて、それを着ようとするなどの錯乱状態に陥ったまま息をひきとりました。


サンサルバドル号

スペインの無敵艦隊(アルマダ)の所有する金と財務長官を乗せていた大事な船でした。この船が自爆したのは、司令官シドニアによると「不運な事故」ですが、主計官カルデロンなどは事の真相を次のように伝えています。
サンサルバドル号の砲兵の1人であるドイツ(フランドル?)人が、何らかの理由で船長の怒りを買い、不当なムチ打ち刑に処せられてしまいます。
復讐の炎に燃えた彼は船倉に降りると、表向きは大砲から湿った火薬を吹き飛ばすという目的で、火のついた松明を火薬樽のなかに投げ込むと自分は海に飛び込んで逃げました。
こうして発生した爆発によって、サンサルバドル号の船尾と2つの上甲板が吹っ飛んでしまい、2百名もの乗組員が死亡したのです。


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新規作成日:2002年2月11日/最終更新日:2002年2月26日