印パ戦争
1947年〜1949年 第1次印パ戦争
1965年〜1966年 第2次印パ戦争
1971年 第3次印パ戦争
第1次インド・パキスタン戦争
1947(昭和22)年10月22日以来、カシミール地方の領有をめぐってインドとパキスタンの間で争われた戦争
カシミール藩王ハリ・シングはヒンドゥー教徒であったが、住民の大半はイスラム教徒であった。
藩王は、当初イギリスの宗主権の喪失に乗じた独立を構想していた。
しかし、1947年10月、パシュトゥン部族がカシミール渓谷に侵入、その背後にパキスタンの手があるとみたカシミール藩王は インドへの併合に合意し、インドの支援を要請した。
これに対し、空輸されたインド兵は、カシミール渓谷掃討作戦を展開し、ほぼ成功した。
1948年5月にはパキスタン軍の参戦もあったが、1949年1月、国連の調停で停戦協定にこぎつけ、7月には停戦ラインを暫定的な国境とし、最終的な帰属は将来の住民投票によることとなった。
しかし、インドは何回にもわたる国連の勧告にもかかわらず、住民投票を拒否してきた。もし、住民投票を行えば、パキスタンへの帰属が決定するからであろう。
このカシミールを舞台にした宣戦布告なき戦争は、第1次インド・パキスタン戦争とよばれている。
結果、カシミールの3分の2がインド ジャンムー・カシミール州、3分の1がパキスタン アザド・カシミールとなったが、両国とも現状を公式に承認したわけではなかった。
1951年9月には、インド側スリナガル政府は、一方的に議会の選挙を行い、1954年2月、同議会はインド連邦への帰属を 決定した。
大多数の住民とパキスタンは、これを認めていない。
第2次インド・パキスタン戦争
1965(昭和40)年にはインド西部国境地帯を中心に武力衝突に発展したが、国連の仲裁で停戦
インド・パキスタン関係は1962年の中国・インド戦争後、再び緊迫した。
1965年4月初めの、カッチ湿地での両国の衝突、5月初めのインド政府による ジャンムー・カシミールの指導者シャイフ・アブドゥッラーの逮捕、8月初めの 武装ゲリラのカシミール渓谷への侵入へと事件が続いた。
9月1日、パキスタン軍がチャンプを攻撃したのに対し、6日インド軍が ラホールなどパンジャブを越境攻撃し、両国間で全面戦争が始まった。
イギリス・アメリカ両国の停戦圧力などで、9月22日インド・パキスタン両国は国連安保理事会の停戦決議を受諾、1966年1月、ソ連のコスイギン首相の調停によるタシュケント宣言で、カシミールの停戦ラインの遵守が約され、カシミールにおける両軍の撤退が実現した。
しかし、中国は、この宣言をアメリカとソ連の陰謀の産物として強く非難した。
また、インド、パキスタン国内でも、つよい反対運動が起きるなどして、この宣言は事実上死文化した。
第3次インド・パキスタン戦争
東パキスタンでは、西パキスタンの中央政府の支配に対して自治権獲得運動が激化、1969(昭和44)年パキスタン中央政府軍が鎮圧に出動し、東パキスタンと武力衝突
東パキスタンはインドの援助を得て全面戦争に発展し、パキスタン中央政府軍は完敗
1972(昭和47)年 東パキスタンはバングラデシュとして独立
1970年12月の総選挙で東パキスタンの自治を要求するアワミ連盟が 過半数を制したことに対し、1971年3月パキスタンのヤヒヤ大統領は 軍隊を投入した。
インドは西パキスタンからの独立を支持し、12月3日、インド軍は東パキスタンに侵入、パキスタン軍を敗退させた。
12月16日、パキスタン軍は無条件降伏し、互角で戦った西パキスタン側の戦線でもパキスタン軍は停戦を認めた。
第3次インド・パキスタン戦争は、前2回の戦争と異なり、東パキスタンを 焦点とするもので、東パキスタンが西パキスタンから分離し、バングラディシュとして 独立する契機になった。
1972年7月のシムラー協定の調印後、1949年の停戦ラインに変わる『実効管理ライン』を引く交渉が行われ、72年12月それに基づいてカシミールから両軍の撤退が行われた。
新規作成日:2002年2月25日/最終更新日:2002年5月28日