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ポーランド・日本関係史

ポーランドと日本は地理的には一万キロ以上も隔たり、また文化的にも異なった遠い国である。こうした環境に加えて、1745年の第三次ポーランド分割から第1次世界大戦終了まで、独立国として存在しえなかったポーランドの不幸な歴史的変遷が、両国の関係を散発的なものとしていた。一方、日本は17世紀後半以降、2O0年以上にわたり他の国々と鎖国状況にあった。しかしながら、日本は19世紀後半初めにその国境を開いて以来、新しき世界の文物を学びはじめ、そうした過程のなかでポーランドという国やその歴史などにも興味をいだきはじめた。

1892年〜1919年

まだポーランドと日本の間に正式な国交が結ぱれる以前、ポーランドの地を踏んだ最初の日本人は、べルリンから単騎でウラジオス卜クに向かう途中(1892年〜1893年)の福島安正少佐だった。福島は大本営の命を受け、ヨーロッパ陸軍、特に不気味な隣国ロシア軍の情報収集に携わっていたため、当時のポーランド人、独立運動の指導者たち、シべリア流刑者たちと接触を持ったようだ。19世紀末の日本人が、分割と言うポーランドが遭遇した悲劇的運命を知り得たのは福島少佐の報告に負うところが人きい。
19世紀から20世紀にかけてポーランド旅行家や探検家が徐々に日本を訪れ始めたが、その中に二人のシべリア流刑者、民族学者のブロニスワフ・ピウスツキとやはり民族学者で作家でもあるヴァツワフ・シェロシェフスキがいた。
前者は後にアイヌ語、アイヌ文化の最も優れた専門家の一人となり、後者は日本を匙材に回想録や小説を物した。
日露戦争中に(1904年〜1905年)ポーランド人の日本への関心が大いに強まった。ロシアが負け再び祖国の独立が回復する望みが出てきたからだ。これが、当時の国民連盟とポーランド社会党の政治家が日本政府の代表と非公式の接触を持とうとしたことに繋がる。そしてその政治家つまりロマン・ドウモフスキとヨゼフ・ピウスツキが会談のため東京に赴いた。結局大した協力までには至らなかったが、その時ポーランド人が抱いた日本人に対する好感が戦争中だけでなく今日までも続いていると言えよう。

1919年〜1945年

第一次世界大戦後の1919年に、日本が独立ポーランドを承認したことをもって両国の公式の外交関係が始まった。20年代の両国関係は恒常的なものでなかったとはいえ、相互通商条約を批准し、皇室代表の非公式な訪問に繋がった。
日本赤十字社の援助で800名ものポーランドのシべリア孤児が祖国帰還を果たした。ポーランド人が親日感情を抱いていた証拠に、ポーランド人は1928年に対ロシア戦の際軍功のあった訓名の日本軍将校にViftutiMilitari勲章を授けた。両国民がお互いの文化に示す関心はさらに増した。それに応えて多彩な組織が生まれ、(例えば日本・ポーランド協会やポーランド・日本協会など)ポーランドに日本語講座ができたり、純文学が翻訳されたり、種々の発行物が刊行されたりした。
30年代には国際情勢の変化を背景に、両国関係はさらに活性化された。軍事協力、特に対独ソ諜報関係および暗号通信の面での協力が推進され、この協力は194S年まで続いた。と言う事は1941年12月11日にポーランドが日本に対して宣戦を布告して、公式な国交が途絶えた後まで続いたわけである。杉原千畝領事とレシェク・ダシキェヴイジチ少尉は主にカウナス、ケーニヒべルグで、小野寺真中将とミハウ・リビコフスキ少佐はストックホルムで協力活動した。杉原領事のおかげで、6000人ものポーランド系ユダヤ人が確実と思われた死を免れたのである。
戦争をよそ目に、日本ではポーランド人のフランシスコ派修道士が伝道を継続していた。その伝道の拠点をマクシミリアン・コルべ神父はゼノ修道士、即ちゼノン・ジェブロフスキ士と協力して長崎に設けた。日本の孤児や老人、身障者に対する彼らの献身的な援助は今に続いている。

1945年〜

ポーランドと日本の国交は、1937年になって再び回復され、タデウシュ・ジェブロフスキと太田三郎が最初の大使として赴任した。以後、とりわけ1989年からは政治的、経済的、文化的、学術的協力が活性化した。
1990年には海部俊樹首相がポーランドを訪問し、代わりにレフ・ワレサ大統領が日本を訪問(1994年)、1998年にはアレクサンデル・クヴァシニェフスキ大統領、1999年にはイェジ・ブゼク首相が訪日を果たした。日本からの投資規模も徐々に膨らんでいる。
ポーランド・日本両国の芸術家たちもお互いに触発、影響し合っているように見える。日本て珊まポーランド派と言われる映画作品が好評を博し、タデウシュ・カントル劇場、イェジ・クロ卜フスキ実験劇場、ポスタ−やグラフイック、マグダレナ・アバカノヴイッチの創作そしてポーランド音楽の評判も高い。ボ一ランドでも日本の古典演劇、前衛演劇、またボスタ一、グラフイック、音楽、映画などどれをとっても熱烈に歓迎される。
両国文化協力の最良のシンボルは、日本で最もよく知られている映画監督の―人アンジェイ・ワイダの奔走でクラクフに設立された日本美術技術センターだろう。
ポーランドの日本学者、日本のボ一ランド学者の活躍のおかげで、両国の読者は貴重な文化関係の論文やしっかりした純文学の原語訳を手にする事ができる。
総合的に見て、21世紀のポーランド・日本関係はさらに飛躍的な発展を見るように思われる。



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新規作成日:2003年1月27日/最終更新日:2003年1月27日