会式一号機

正式名称は「臨時軍用気球研究会式一号機」。
会式一号機は、明治44年、徳川大尉の監督指導により製作された日本で初めての軍用機。
この「会」とは、気球・飛行機の軍事利用の研究のため、1909(明治42)年7月 勅令により、陸軍・帝大・中央気象台のメンバーらが設立した「臨時軍用気球研究会」のことである。
この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功したアンリ・ファルマン機を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作る事を目的として、所沢飛行場内で製作され、明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。
機体材料は全て国内で調達したが、適当な工作機械がなかったため木材は鋸で加工している。
当時の日本の工業水準は低く、製作は試行錯誤であった。
多くの困難を克服して完成した会式一号機は、設計・製作の両面で徳川大尉の功績が大きかったため、一般には徳川式と呼ばれていた。
主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが製作された。

徳川大尉による初飛行の後、所沢飛行場が開設され、頻繁に飛行練習が行われるようになると、輸入された飛行機は酷使され、損傷が激しくなってきた。
徳川大尉は飛行機の不足を痛感し、1911(明治44)年4月、臨時軍用気球研究会の事業として新しい飛行機の設計を開始した。
アンリ・ファルマン1910年型複葉機を参考にして設計されたが、機体強度、上昇力、速度などの向上などが図られていた。
同年7月より所沢飛行場の格納庫内で製作され、10月初頭に日本最初の国産軍用機、臨時軍用気球研究会式一号(略して 会式一号)が完成した。
10月13日、所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速72Km/h、最高高度85mという良好な成績で成功した。

会式一号機の成功に自信をつけた臨時軍用気球研究会は、次々に新しい飛行機を開発し、1912(明治45)年から1916(大正5)年までの間に、合計6機の会式機が誕生した。
会式ニ〜四号機は徳川大尉の設計で、会式一号機を改良した飛行機であった。
会式五号機からは設計が沢田秀中尉となり、続いて六号機、七号機がつくられた。
最後に製作された会式七号小型飛行機(会式七号駆遂機)は沢田秀中尉が独自に設計した、日本最初の国産戦闘機であった。

生産国:日本
用途:練習機
年式:1911(明治44)年
エンジン:グノーム 空冷回転星型7気筒(50馬力)
翼幅:11.00m
全長:11.00m
自重:450kg
全備重量:550kg
最大速度:72km/h
航続時間:3時間
乗員:1名



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新規作成日:2003年3月28日/最終更新日:2003年3月28日