公海と領海

公海と領海

海には「公海」と「領海」という考えかたがある。
公海は、どの国にも属さない、だれもが自由に行き来したり、魚をとったりできる海のこと。
領海は、沿岸国の陸地のつづき、つまりその国の領土に準ずるという考えかたである。
国家の沿岸(基線、baselines)にそって一定の幅(12浬)を持つ帯状の海域は「領海(Territorial Sea, TS)」と呼ばれ、沿岸国の主権が及ぶ(海洋法条約第2条)。
なお、この管轄権は、上空(領空)、海底及び海底の下にまで及び、生物・鉱物資源の採取について独占権を有する。
1919年のパリ国際航空条約は各国が領土・領水上空について主権を持つことを明文で認めており、例えば、領海上空を無断で飛行する外国空軍機は領空侵犯となる

17世紀の初頭「自由海論」(1609年)を著し海洋の自由を主張するグロティウス(Grotius, Huge 1583〜1645)と、「閉鎖海論」(1635年)を著し海洋の私的領有を主張するセルデン(Selden, John 1584〜1654)が対立し、これ以降海洋の二分化(公海と領海)が次第に確立していった。
公海と領海は、当初は国際的な法律で決められたわけではなかったが、国どうしが守る考えとして、17世紀のおわりごろに世界に広まった。
18世紀になると、この領海の幅をいかに確定するかが問題になった。
そこで登場したのがバインケルスフーク(Bvnkershoek, Coornelius van 1673〜1743)によって主張された「着弾距離説」(三浬説)で、当時の大砲の着弾距離(約三浬、1浬は1852メートル)を根拠にしたもので、以降19世紀まで領域の幅は三浬が定説と考えられていた。
領海は海岸から3海里とされ、領海の中を行き来したり、魚をとったりするのにはその国の許可が必要である。1海里は1,852mなので、3海里は5,556mになる。
ところが、19世紀半ばから三浬以上の領海の幅を主張する国が現れ、両者が激しく対立し、それが20世紀初頭まで続いた。
1930年に国際連盟法典編纂会議が開催されたが、そこでも領海の幅を統一することはできず、さらに第二次世界大戦後1945年9月28日、「トルーマン宣言」(「大陸棚に関する宣言」、「沿岸漁業のための保存水域に対する宣言」)によりアメリカは領海を越えた沿岸の管轄権を宣言するようになった。
1945年に、アメリカの近くで発見された海底油田をアメリカが所有するために、領海を12海里に広げると宣言し、これをきっかけに領海を広げる動きが世界中の国でおきた。
が、各国独自におこなったため問題が生じることとなった。
そして、これに対抗するかのようにラテンアメリカ諸国が、領海200浬を主張するなどして各国が独自に様々な管轄権を唱え始め、まさに海洋は、無法地帯と化していった。
これを収拾するために、国連はジュネーブで第一次海洋法会議(1958年)を開催し、いわゆるジュネーブ四条約(「領海及び接続水域に関する条約」、「公海に関する条約」、「漁業及び公海の生物資源の保護に関する条約」、「大陸棚に関する条約」)を採択した。そこで各国が集まって会議のうえ、1982年に「国連海洋法条約」がつくられ、領海は12海里以内とすることが決められた。
この条約では、あわせて「排他的経済水域」(EEZ)も決められた。
「排他的経済水域」(EEZ)は、陸地から200海里までの海は、その国が魚や海底資源をとったり管理する権利をもつというもので、公海と領海の中間の海という考えかたになる。
つまり200海里の中を行き来するのは自由だが、魚や海底資源をとるにはその国の許可が必要な海ということ。
尚、領海にも「無害航行権」(無害通航権)というものが認められており、商船などが交通のために航行する場合、所定のルールを守っている限り、別段の許可を必要とせずに公海と同様に航行することが出来る。
-航路管制などの許可はこれとは別次元のものである-

尚、内水というものがあり、これは領土と同じに扱われる。


日本の領海と排他的経済水域(EEZ)
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新規作成日:2005年9月3日/最終更新日:2005年9月3日