イラクの治安と自衛隊派遣

イラクの戦後復興支援のため自衛隊派遣を派遣する予定になっている。

イラクの情勢はどうなっているのだろうか。

イラクに米英軍が攻撃をかけ、大統領府を占拠した段階で、大規模戦闘の終結が宣言され、戦争は終わったとされている。
ここで、イラクへの米英軍による攻撃が、侵略なのか、テロ撲滅や民主化への介入かの議論は別に譲る。
しかしながら、アメリカ軍の死者は、戦争中よりも、戦後のほうが多くなっており、とどまる気配もない。

そしてまた、先日、奧参事官(大使)、井上三等書記官(一等書記官)が、襲撃され亡くなった。
( )内はその後の二階級特進によるもの。

防衛庁の調査団によれば、展開予定地の現地の治安状況は良好だという。

政府は、安全が確保された上で自衛隊を派遣し、戦後復興の支援を行い、世界平和への貢献を目指している。

しかし、そろそろ論理的矛盾は払拭できない局面に達している。

世界平和の前提は、紛争要素の解消にある。
国家治安の悪化は紛争要素のひとつであり、戦後復興を果たすことは、国家経済の安定でもあり、それによって、治安も回復し、紛争要素は減少する。
これを促進するため、各国で支援するのが、戦後復興の国際支援だ。
これには、人的経済的各種支援がある。
自衛隊の参加は、この人的支援のひとつだ。
自衛隊の場合、特殊事情があるのだが、一般に国軍は、国防が主目的であるが、国家を代表したこういった作戦にも投入されるのは一般的である。
また、若干のリスクを伴いながらも、国軍としての使命を果たすことが求められる。

自衛隊の特殊事情は、わが国(国民)において、ある意味国軍として認知されておらず、ために、犠牲に対するイデオロギーが強い。
少々の犠牲は当然だという言い方はしないが、児童を保護するほどの安全性を期待するのは異常だ。

完全に安全な状態であれば、民間人のみの活動も可能であり、むしろ一般の経済活動としての技術支援で十分だ。
その意味で、若干のリスクを伴うのは、国軍としては当然のことである。

もちろん、派遣される本人や送り出す家族の心境は察するに余りある。
しかし、事に望んで躊躇しては、自衛隊として成り立つものではない。
自衛隊員各員はこれを承知し任務に励んでおられることに、敬意は払わねばならない。

ここで問題となるのは、政府の「安全を確保」という表現だろう。
婦女子が夜中に一人歩きできる水準と、自衛隊でなければ務まらない差は明確にすべきだ。

さて、現地の治安状況はどうなのか。
日本の外交官が襲撃され亡くなった。
日本の外交官を狙ったテロ行為なのか、一般犯罪なのかは現時点でまだ明確ではない。
しかし、外交官の安全が守れない治安状況というのは、決して安全とはいえないだろう。

また、安全に対する考え方も問題だ。
現時点で治安が保たれているとしても、現地展開後にどのように変化するかも問題だ。
自衛隊の、すなわち日の丸の来場を好まないとすれば、日の丸に対して攻撃が始まるということもある。
平和維持のための支援というのは、あくまで支援する側の論理で、受ける側では、侵略行為と受け取られない保証はないのだ。

日本やドイツも、戦後復興に世界から多大な支援を受けている。
敗戦国日本の場合、戦勝国、なんでもアメリカに多大な支援を受け、復興を果たした。
これには、東西対決と、朝鮮半島情勢の激変による、対日政策の変化もある。
しかし、なんと言っても、日本政府として、戦争を終結させ、戦後としたことである。
実際、天皇陛下による終戦の玉音放送がなかったなら、一億総玉砕の道を歩んでいたに違いない。

イラクの場合はどうだろうか。
ある意味、アメリカが一方的に攻撃を仕掛け、イラク政府を人的組織的に破壊して、一方的に終戦を宣言した。
イラクのサイドでは、侵略であり、現段階は占領下にあるに過ぎず、奪還のための戦闘が継続されている状態といっても過言ではあるまい。
立場が違えば見解も違うのは当然だが、外野が言いたいことをいっている段階ならともかく、現地で活動する当事者なら、その差は埋めておく必要がある。

イラクの一般国民としては、なにより平和であるが、侵略者に居座ってもらいたいわけでもないだろう。

わが国は、日米同盟の元、アメリカと緊密な関係を持っている。
しかしながら、自衛隊の特殊事情は存在する。
アメリカには自衛隊の特殊事情は、歯がゆさがあるなりにも理解されており、運用上の制限は周知の上だが、イラクがこの事情を好意的に理解してくれるとは限らない。
むしろ、アメリカと同じ「旗」としてみるだろう。
「自衛隊は武器使用による反撃ができないから撃たないでね」なんていう子供じみたことが通用するわけがない。

世界平和は世界の望みだが、その盟主や主義主張は千差万別である。
わが国が考えるものと他国は一致しないものも多々ある。
世界的基準はないのだ。

例えば身近なところで、百点満点のテストの基準点はどこだろうか。
50点、平均点、及第点、それぞれに意味がある。平均点も、クラス平均、校内平均、全国平均といくつもある。
それぞれの局面で異なるということだ。

今回、従来の自衛隊によるPKO活動に比べてリスクがあることは、防衛庁内では認識されているようだ。
実際、武器使用基準なども緩和されそうである。
適正に使用されるべきことは言うまでもないのだが、これがなかなか難しい。

実際、米軍でもカメラマンの抱えのビデオカメラをロケットランチャーと誤認しての射撃も発生している。
自衛隊の場合、おそらく、損害発生の確認後でなければ、対応できないであろう。
自衛隊に犠牲が出た場合、国民の同情は集まるが、誤射による加害という事態は、政府をも揺るがしかねない。
武器使用の可能性は低いに越したことはないだろう。

シビリアンコントロールは、自衛隊を政府が管理することにあるが、その運用を誤れば、あたら犠牲を強いることにもなるのである。

的確なる状況判断とともに、自衛隊の派遣理由、活動用件、リスクについて、更なる検討とともに、国民へのしかるべき説明も望まれるところだ。

その後、小泉首相は、一定の危険の存在を認め、だからこそ自衛隊でなければいけないという点を強調した。
これは、これまでの曖昧な状態から一線を画す重要なポイントである。


さて、イラクのへの先遣隊が派遣された。

自衛隊を応援すると言う掲示板は多くあるが、やたら「頑張って」とか応援の表記をすることにより満足しているところと、その重みに注目してじっとこらえているのがひしひしと感じられるところのふたとおりだ。

自衛隊を応援するものは、声に出す出さないにかかわらず、心から任務の成功と無事の帰還を願っている。
むしろ声に出しても出さなくても物理的な変化はありえない。
宗教であれば念仏のように唱えるのも精進だろう。
にもかかわらず、声に出すことにより自分こそは応援していると言うことをアピールしたいようだ。

現地の状況は、米軍が置かれている状況よりははるかに安全であるようだ。
それは、先遣隊の調査報告を待つまでもなく、大挙して展開している報道陣が、たとえ報道自粛があったとしても、実際の危険にあっていないことを意味する。
死者はおろか怪我人も聞かない、普通の状況である。
これが戦場であれば、30名の派遣隊員に対して、100名ともいわれる報道陣が付いて回れば、報道陣の安全など確保できるわけがないのだ。

報道自粛にはふたとおりあって、実体を公表することによる悪影響の懸念が一般的だが、こと、今回に限っては、報道側の意図により、実体を正しく伝えられないことが大きいだろう。
銃声砲声を一度も聞いたことがないものは、隣のテレビや街角の交通事故の音を聞いて「攻撃が再開された」と速報を入れかねない。
そういう意味では、冷静な判断を求めるのは間違ってはいないだろう。

ちと不謹慎な表現だが、一部の報道は、スムーズな進捗よりも、報ずべきものがほしいのであろう。
もし、実際に何か大きなことがあれば、報道自粛どころではない。
それがないということは、日本で当初考えているより治安はよいということだろう。
そもそも、報道陣が大挙して詰め掛けているということが「安全」を前提とした証でもある。
戦場には行ったことのない者が行ってる訳である。
戦場だったら行かないであろう。
不謹慎にも報ずべきものを待っているものがいたとしたら、そいつはさっさとかえって来るべきだ。本人の安全の為に。
報ずべきもののターゲットがその本人ではないなんて「物理法則」で決まっているわけではないのだから。
言葉も通じない、法も、秩序もないとすれば、危険極まりないわけだ。
そこに滞在できるというのがひとつの証である。

さて、イラクがどれほど危険かを言う前にだ。
日本国内がどの程度安全かを評価する必要もあるのではなかろうか。
交通事故の死者1万人弱は別としても、地下鉄サリン事件などが発生するわが国が安全と言えるのだろうか。
暴力団抗争や強盗を含めて、命を落とす日本人は少なくない。
ハイジャックはこうすればできると、やって見せた者もいた。
この日本の現状を「安全」というのであれば、既にある程度の危険は許容範囲たるべきなのである。
もちろん、この国内の安全性の問題は、警察の治安能力低下によるもので、決して現状を容認できるものではないのだが・・・。

いくつかの報道では、安全面のほか、費用対効果を強調し、自衛隊の派遣に異を唱えるものもいる。
フランスのNGOの10倍以上の費用をかけても1割程度の水の供給しかできないという。
自衛隊の派遣は、日本国が国として動くかどうかがテーマだということを、彼らは忘れている。
巨額の資金を投入しながらまったく評価されなかった湾岸戦争。
そしてその汚名を晴らした、海上自衛隊のペルシャ湾派遣の掃海部隊。
その意味を考えるべきだ。

NGO 非政府組織、すなわち国とは別に行われることなのだ。
NGOにお金を出しても、国としては血も汗も流さないという評価にはかわらない。
そして自衛隊が行えることは、自己の安全を自分で守る、自己完結する能力があるということだ。
万が一紛争が再発した場合、NGOへは救援の手段があるのだろうか。
自衛隊であれば、それなりの装備を持ち、現地で直ちに対処可能だ。




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新規作成日:2003年12月6日/最終更新日:2004年1月25日