やっと頓挫した、ゆとり教育

ゆとり教育とは、それまでの詰め込み教育を改めねるとされて導入されたものだ。

100の事を無理やり教え込もうとしても70しか身につかないとすれば、はじめからゆとりを持って70を教えればよいという発想だ。

しかし、算術論どおりには事は進まない。

例えば、アリは一生懸命働いている。
が、よくみると、このうちの3割は働いていない。
-あくまで人間が見てのレベルで、アリ社会での効能については解明されていないが-
そこで、この3割を除けば、残る7割は、100%働くのか・・・、というと、残った中で3割は働いていないという。
逆に、当初働いていなかった3割は、このうちの7割は働くという。

詰め込み教育というと、なにやら強引な響きがあるのだが、逆に、無理やり詰め込むことによって、少しでも多く入って行くということもある。

100を与えて70しか残らないなら、130を与えれば、91残ることもある。

ゆとり教育とは、日教組が言い出したもので、実は、教育の是非よりも、労働組合として、労働者の主張という面が大きい。
授業時間のゆとり、すなわち、教育労働者の負荷軽減である。
生徒のことなど、考えてのことではない。

もし、生徒のことを考えてのことなら、ゆとりを持った70を完全に教育しきれてしかるべきだが、単に総枠を減らしただけで、その分教師が楽を出きるようになっただけだから、生徒はそのうちの70、すなわち、本来の49しか身についていない。

果たして、教育能力の乏しい教師どもが、ゆとり教育の名の下に更に楽をするがゆえに、日本の教育水準は地に落ちた。

科学の分野での落ち込みが激しいばかりではなく、漢字すら満足に理解できなくなっている。

かつて、アメリカの空港で、外国人労働者が、記載されている英語が読めなかったために、機材のロックができず、飛行機が墜落した事故があった。
日本でも、「差異」の意味がわからずに、企業に大損害を与える若者も出ている。
思えば、ニュースの字幕も、ひらがなが多くなった。

低い者にレベルを合わせるということは、一見、理解度を全員に広めているように見えるのだが、それは社会全体のレベルをどんどん低くするに他ならない。

しかも反面、塾でしのぎを削っている。
公共教育で不満足な分を、有料の教育でまかなうとすれば、優秀なものは、家庭の経済力に比例してくる。
親の稼ぎが少なければ、あたら優秀な人材を埋もれさせてしまう。
とんでもない話だ。

詰め込み教育が絶対的に正しいとは言えないまでも、少なくとも、ゆとり教育のような、意味の無いレベルの低い体制は、深く反省して改められるべきだろう。

レベルの低い教師にこそ生まれる、愚かしい発想だ。
レベルの高い教師は、生徒をひきつけ、つまらない内容でも、巧みに教育できるものだ。

青少年の自殺が増える今日、教師の負担が少なければ防げたという教職員が多い。
冷静に考えてもらいたい。
ゆとり教育なんて想像もできない時代、クラス50名近くで担任の目も届かないといわれる規模でありながら、現在ほどの自殺者なんか出ていない。
現状より楽をするという発想では、規模がいくら小さくなっても状況が好転しないばかりか、悪化の一方だろう。
教育の崩壊こそが根底の悪であることを認識すべきである。


ゆとり教育という、壮大な実験は終焉を迎えた。
しかし、その間、何百万という若者が、不十分な教育しか授からなかった責任を、教育現場では深く受け止めるべきだろう。




戻る TOPに戻る

新規作成日:2007年1月3日/最終更新日:2007年1月6日