祖母の容態

ある日(1998?)、祖母がよろけて倒れた。
冗談か、足がもつれたのかと思っていたが・・・。
翌日病院に行くと、脳梗塞という。
脳梗塞といえば、田中角栄元総理などでも有名だが・・・。
脳の毛細血管が詰まり、その先の脳細胞が壊死して、つかさどっている機能が失われる。
祖母の場合は命には別状はないようだが。
果たして片足の自由が利かなくなった。
が、リハビリなどにより、杖と介助を必要しつつも、動けるようには回復した。

と2003?、再びよろけて倒れた。
再び脳梗塞という。
通院もしていたのになぜ・・・、と思うものの、高齢である以上、パーツの劣化という観点から見れば、もはや不思議でもないのだが。
今度は、手の自由ばかりか、言葉が不自由になった。
意思が伝えられないというのは致命的である。
今回は寝たきりということで、入院となった。
文字盤に指を当てさせて意志をあらわせようとしたが、なかなか難しい。
僅かな反応から意志をくみ取る技が求められる。

当初は僅かながらも声になっていたが、やがてこれも難しくなった。
手を握る力で元気な具合を確かめていたが、やがて弱まってゆく。
高齢というのは致命的な要素で、「いずれは」ということはついて回る。

と2005.10、熱が出たという。
が、肺炎だという。
高齢者の肺炎は致命的らしい。
幸いにも片方だけらしいが、転移も時間の問題らしい。
ボーイングの飛行機なら片肺飛行も出来るところだが・・・。
酸素マスクに点滴、そして心電計らしいものが。
今週が峠とも山とも言う。
峠や山は越えることもできるはずだがどうなんだ。
壁ではないのか・・・。

時あたかも航空観閲式が迫っている。

母親は「その日に備えて片付けを」という。
しかし・・・
その日の準備、すなわち葬儀だが。
片付けて「さあ、いつでもどうぞ」という体制はいかがなものだろうか。
安心して逝っていただくのもなんだか・・・・。
とはいえ、万が一のその日に片付かなければ収拾がつかない。
ということで、最低限度のところまで片付けた。

死の淵から呼び戻すという話も良く聞く。
連日立ち寄り、声をかけ続けた。
果たして航空観閲式前日にはまだ息があるので出立。

やがて数日、真っ白だったというレントゲン写真から、肺炎が引きはじめているという。
そして酸素マスクもとれ、点滴が流動食に変った。
要するに、肺炎が治ったのである。


と、熱が出た。
夜、病院から電話がかかってきた。
病院名を聞いて母親は絶句した。
が、この段階では話をまだ何も聞いていないのだが・・・。
と、看護婦さんが経過を説明してくれる。
が、「〜ですが、残念ながら〜」の言葉を覚悟した。
が、幸いにも、結びは「今は落ち着いています」とのこと。
うちのばあちゃんはなかなか強い。(^_^)

前回の教訓から、心電計らしいものがつかなければ大した局面ではないとも見れる。


その後、何とか年を越したものの、2006.4頃からは目を閉じていることが多くなり、2006.6頃からはほとんど目をあけなくなった。

熱を出すたびに母親は気を揉むが、熱がなくて冷たいよりも、まだ健康的であるとも言える。

2006.8床ずれも多くなり、代謝機能が低下しているという。
かなり限界に近づいているという話らしい。

時より、浪曲のテープを聞かせてはやっているものの、聞こえているのかどうか、もはやわからない。
病院から電話があり、母親は片付けを言う。
肺炎回復の前例もあり、楽観的に考えてはいたものの、息づかいが荒く、体温も低めだ。
2006.8.17病院から電話があり、母親は片付けを言う。
とはいえ、片付けてしまえば、いつでもどうぞの状況である。
が、多少の危機感もあったので、ある程度の整理で。
人の生死は、月の満ち欠けに沿うという。
息を引き取るのは、干潮で、調べてみると、広島あたりは、朝晩7時が干潮で、干満がはっきりしている。
が、東京芝浦では、朝7時の干潮は同じだが、あとは満潮も夜の干潮も区別なく平坦である。
なんで、ということで、海上保安庁海洋情報部に問い合わせてみた。
と、瀬戸内海と、外洋、その他、位置によって、月のみの影響と、太陽も関係したり、海域の構造の影響とかがあるらしく、シロウトにはわかりづらくとも、干満はちゃんとあるらしい。
が、この推移を見ると、夜より朝が危なそうだ。
図書館で浪曲のテープを借り直し、病院へ。
やはり、酸素マスクもつけており、かなり息苦しいようだ。
心電計らしきものもあるのだが・・・。
看護婦さんが血圧を測るが、数字が出ないようだ。
とりあえず、帰るのは夜の干潮を越えるのを見届けてからにしようと決断。
と、ふと、荒い息遣いが落ち着いた。時に17:20?
楽になって眠ったかと思ったが、ちょっと心配になって看護婦さんのところへ。
と、電話に忙しそうだ・・・。
やがて先生が訪れ、心臓マッサージを始めた。
かなり様子が悪そうだが、先生らがはずした間も、心臓マッサージをしてみた。
と、心電は回復したようだ。
が、どうも、呼吸が回復しない。
やがて母親も到着し、延命策の判断があったが、病院の設備の範囲等を勘案し、自己生命力に期待した。
が、この後、一時的に回復したとしても、息苦しさは、病状そのものが回復しなければいかんともしがたく、目先の苦しさが続くことになる。
高齢で、長期間の入院ということは、体力は日増しに低下し、身体の各部の機能は、順次低下する一方である。
薬品による対応も、身体への負担を増大させる。
いかんともしがたい。
結局、自己呼吸が回復せず、2006.8.18 18:50 永眠。享年93歳


容態急変時に出先から間に合うかを心配することが多かったが、まさか見取ることになろうとは。



とりあえず、自宅の片づけへ。
病院へ戻り、安置室へ。
今晩は添い寝。
胸元に短刀が添えられていたが、守り刀とか。
遺体の顔は布で覆うものらしいが、しなかった。

2006.8.18 一旦遺体の自宅への帰宅を。
当初、ドライアイスの予定であったが、夏場でもあり、特別な処置をしてもらった。
昼、病院を出て、処置へ。帰宅は夕方となった。
今晩も添い寝。
胸元に守り刀として、ハサミを添えた。
今日は、横浜港に、CLIPPER ODYSSEY が入港し、スケジュール的には見てこれたところだが、式次第の打ち合わせ等もあって、見送った。

2006.8.19 通夜
午後、遺体を送り出し、旅仕度。
胸元に守り刀として短刀が添えられていた。
以前、棺には刃物を入れないものだと聞いていたのだが、色々あるようだ。
18:00-19:00通夜
続いて会食。
今晩も添い寝。
今日は、横田基地のオープンデイで、スケジュール的には見てこれたところだが、見送った。

2006.8.20 告別式
11:00-12:00告別式
同時に、初七日の法要。
出棺。自宅付近を通って桐ヶ谷火葬場へ。
12:30火葬場。
以前よりも規模は大きくなっていて、入れ替わり立ち代りの様相。
13:20?収骨。
13:45戻って会食。
15:00過ぎ、解散。
遺骨の帰宅。

当初は近親者のみで簡単にということだったが、結果的に通夜に50名規模の参加をいただいた。
式場も、自宅とお寺、会館などの種類もあり、式進行もいろいろあるようだが、今回は、通夜がメインで、告別式は近親者中心であった。

二度目の脳梗塞での入院以来、浪曲のテープを聞かせていた。
死後、線香をあげても、それは現世のものの宗教的気休めで、物理法則の上では仏には何ら寄与するものでもないから、意識のある間にと思っていたのだが。
その意味で、急病や事故などの急死に比べれば、十分な時間があったため、泣かないつもりだった。
が、やはり難しい。
葬儀進行の人などが、泣かせる言葉がうまい。




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新規作成日:2006年1月29日/最終更新日:2006年8月20日