日本アンデパンダン展/首藤教之(2005.2.25)
「生きる証・私の表現」をアピールして、非審査・自由出品の第58回日本アンデパンダン展
が28日からオープンです(3月12日まで)。●詳細HP
私は昨年の横浜ノーウオー展の出品作「ピース・ガーデン」の続編「ミライ・ユメ・マツリ」
を引き続き島真弓さんとのコラボレーションによって出品します。ここ1ヶ月それの制作に
没頭していました。アッケラカン・ナイーブ・ヒラキナオリ・タノシイズムによる陰険な現
実への反撃と言えばいささか単純すぎるけれど、ややそれに近いものです。そーゆーのが
あってなぜいけないんだ!といったところか。
実はこれで三度目、しかも「三度あることは四度ある」とかで、11月の横浜ノーウオー展にも
またまた出品を決心!の様子らしいのです(未確認)。現在までのところ、このプロジェクト
は特に女性のみなさんに好評で、また今度も!の声援がやる度に強まるので……。
というわけで、アンデパンダンのをご覧になりたい方は招待はがきをお送りしますの
で御連絡ください。●首藤メール
少しわたしの考えを/星野敬子(2005.2.15)
アンケート結果を興味深く読みました。少しわたしの考えを述べさせていただきます。
「自分の政治的な意見を作品によって表明するのは困難だ」とか、「政治と個人の意思の
境界」とか書いてある意見を見ましたが、わたしにはちょっと理解不能の感じがします。
ひとはそれぞれの状況と立場によって、自分自身の限界をも定められるものであることは
否めないものですが、そのなかにあって自分がどのような存在であるのか、又どのような
存在としてあるべきか、ということは政治とか個人とかの区別によって語られるものでは
ないと思います。もしそうであったとしたら、人間とはなんという貧しい存在としてある
のでしょうか。
また、わたし達は芸術家として、表現の手段を持っているということは、わたし達に与えら
れた贈り物のようなものだと思いますし、それは又感謝に値することだと私は思います。
スペイン語ではそれは “don(天の恵み)”であり、“ regalo(贈り物)” であり、神から
与えられたものという語源です。ですからその“don”によって私たちは、又なにかもう一つ
の機会を与えられている、と考えてもよいのではないでしょうか。
そしてたとえ自身の芸術によって表明できなくとも.芸術家として反戦の意思を表明すること
は意義のあることと私は感じています。数学者は数学によってその反戦の意思を表明すべき
でしょうか? わたしはそうではないと思います。
ところで11月にまた横浜で反戦展が開かれることをこのメールで知りました。詳しいことを
お知らせください。
【事務局註 】星野さんは永くスペインに住み、昨年8月の展覧会に参加しました。アンケート集計後、
事務局にメールアドレスが分かりましたので、回答者には入っていません。
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