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叱る・誉めると言うことがどうしていけないか?

叱る(怒る)・誉める(褒美をあげる)と言う行為、どこからどこまでがそうなのかと言うと、人によって線引きが違うのですが。
ここでは上の立場から下の立場のものに対してする行為・結果に注目する行為のことです。

叱ると言うのは負の注目です、叱られて良い気分のする人はそうそういないと思います。
むしろ叱られるとやる気が無くなると思います。
理不尽な(自分は良いことをしたと思っているときに)叱られ方をされたら、納得もいきませんよね。

一番の問題は、叱られたことで問題の責任があやふやになるということです。

例として、学校なり職場に行くときにあなたが忘れ物をしました。そのことを家に帰った親に「寝る前に準備しないから!」「何をやってるのまったく!」「忘れ物をするのは気が抜けてるから!」なんて言われたら、
次から忘れ物をしないようにしようと言う思いより、「どうしてそんな事言われなきゃいけないんだ!」「そこまで言わなくても・・・」など、本来なら忘物をして困ったことによって次どうしようと考える所を、言った人に対する文句やその人の責任に摩り替わってしまうと言うことがおこります。

よく、「言ってくれなかったから忘れた!」「どうして言ってくれないの!」「起こしてくれないから遅刻した!」なんて怒っているのを見かけませんか?
これらの責任は本来言ってくれない人がいけないのではなく、本人が取るべきことです。

ただ、この責任を取ると言うのは勇気がいることです。

そのためにも、勇気をくじかない、勇気付けるということが必要になってきます。

誉めると言うのがどうしていけないか?勇気付けになると思われる方も多いですが、誉める(賞)と言うのは結果に対する行為です、その結果が成功しているうちは良いのですが、失敗した場合には逆の意味になって帰ってくるため勇気をくじきます。

たとえば、「お手伝いして偉いね」「ちゃんと勉強し良い子だね」と言うのは、
お手伝いをしないのは偉くない子、ちゃんと勉強しないのは悪い子、といった裏のメッセージも相手に伝わります。
また、褒美と言うのも誉めると同じような意味を持ちます。

そして、この誉めると言う行為は、誉める人の価値観によって同じ行動でも評価が変わります。



その結果として、良い結果(誉める人にとって)を出せるうちは誉められるために努力をしてがんばるかもしれません。
しかし、自分の力では良い結果(誉める人にとって)が出せないと思ったとき、誉めてくれないと感じたときは、初めから努力をしない(なぜなら誉められないから)と言う結果も生まれます。


さらには、期待に添えないと思ったときに逆の事をして気を引こうとすることもあります。

自分を良く見せるために(良い子であるために)常にエネルギーを使わなければいけないって、悲しいですよね。

ありのままの自分を出す(自己受容)と言うのにも勇気が必要です。


まあ、すごく小さい子だと、シンプルに褒める方が伝わる時期もあります。


また、一番大切になってくるのは、相手との関係性なので、厳しい言葉が勇気づけになることもあれば、