父母の思い出
2012年97才で亡くなった父と同じ年に90才で亡くなった母の思い出を綴ってみました。
長野県に生まれ、東京で就職、結婚、二度の出征、戦後は北海道に転勤したのち、岩見沢で会社を設立、
50年以上生活し第二の故郷となりました。2000年からは伊豆の下田に住んでいました。
まさに波乱万丈の生涯だったと思います。また、私にとっても尊敬するすばらしい父親でした。
母は新潟県出身で末っ子の私をとても可愛がってくれました。最後まで子供たちのことを心配してくれたやさしい母でした。
父の出身は長野県の木島平村。木島平村は長野県北東に位置し、近くには高社山、馬曲温泉がある。野沢菜で有名な野沢温泉の近くです。生まれた年は大正4年、父は9人兄弟の5男坊でした。この年は昨年改装された東京駅が作られた年です。また長野県歌の信濃の国をこよなく愛する人でした。 | ![]() |
尋常高等小学校を卒業した父は、東京に出て最初に勤めたのがサンエス万年筆です。右の写真は遺品から見つかったその会社の万年筆です。ペン先にSSSの刻印があります。私もはじめて見ました。 | |
当時のサンエス万年筆の広告です。サンエス万年筆は日本の万年筆の創世期の会社スワン、パイロットに並ぶ万年筆メーカーです。大正12年に細沼浅四郎により日本橋で創業。日本国内のほかに海外にも輸出されていましたが、戦後倒産。 サンエスは、Sun、Star、Seaを意味している。 また、この会社の社長は文学雑誌も発行しており、有名作家の作品も掲載していました。 |
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中央大学付属高校時の写真 長野から上京後、働きながら高校に通学。この写真はその当時学友と共に武甲山に登った時のもの。この当時から登山を始めたらしい。この写真を撮った学友とは最後まで交友があり、父の死を知ってお参りに来て頂いた。 |
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父が長年使用していたカメラ Fujica35-ML(Fujica Camera) 1958年発売で、当時19,500円で発売されていた。 子供の頃、よく写真を撮ってくれた。先日遺品を整理していたら、昔の写真が沢山出てきた。恐らくこのカメラで撮影したものだろう。このカメラの前は2眼カメラを使っていたというが、私は見たこともない。 |
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北海道岩見沢の家 1954年に建築した約50年間住んだ思い出の家。当初は平屋だったが、途中で2階を建て増した。子供たち3人はこの家で子供時代をすごした。子供達が結婚したあとも夏休みや冬休みに孫達が遊びに来て、夏には庭でジンギスカンをご馳走してくれた。今や建物もなく、土地も岩見沢市に寄付した。 |
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会社退職後の写真 長野から東京そして北海道岩見沢に。岩見沢では配管関係の会社日管建設を設立し、社長、会長を歴任し、70歳で退職し、そのあとはライオンズクラブの活動を永年行い、1979年には岩見沢中央ライオンズクラブの第8代会長を務めた。昭和51年には労働大臣賞を受賞しました。 |
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中国上海の旅の写真 父のたっての希望で中国の上海・無錫・蘇州に旅行に行きました。 父母、姉、私の四人です。父は、戦争中に上海に派遣され、ここで終戦を迎えた懐かしい場所です。これが父にとりこれが最後の海外旅行となりましたが、良い思い出になりました。ホテルでの食事中に父が中国語を片言でしたが話した時は少し驚きました。 |
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恵比寿ウェスティンホテルにて おいの結婚式のあと、恵比寿のホテルに江梨子一家と一緒に食事。 これが孫との最後の写真です。母はこのころから足が弱くなっていました。まだ、下の孫(有咲)は生まれていません。 |
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北海道の家の庭の花 スズラン、スイセン、シャクナゲ、ヒナゲシ、ルビナス、オダマキ、ダリア マーガレット、グラジオラス、ギボウシ、ハマナス、コスモス、キキョウ、 |
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