遺跡探訪
子供の頃から興味があった歴史特に考古学関係の遺跡探訪を始めました。
家から近い東急目黒線、大井町線沿線には特にに沢山の古墳があります。最近では東京にある中世の城跡を訪ねている。
都内には約100ケ所、都全体では200を超える城跡があるという。
![]() 護国寺にある文化14年(1817年)に作られた富士塚。江戸八富士のひとつ高さは6メートルほどで合目石など30基が残されている。明治時代に現在地に移転されたが、都内でも四番目に古い。 |
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護国寺 五代将軍綱吉が1681年に生母桂昌院の発願で建立。江戸の面影を残す数少ない真言宗豊山派の寺院。重要文化財の本堂など多くは当時のもの。落ち着いた雰囲気の中、江戸時代を感じられる。境内には大隈重信、三条実美、山形有朋などの有名人のお墓がある。 |
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新井城跡(熊野神社) 大田区大森にある北条氏家臣梶原日向守の城跡といわれる。舌状台地の先端にあり、まさに好立地。すぐ東には旧池上道が通る。現在は熊野神社と善慶寺となっているが、創建は不明だが平将門の乱の際、将門討伐の戦勝が行われたと伝わる。善慶寺は神仏分離まで別当寺で新井義民六人衆のお墓がある。 |
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彦根城(2023.3.29) 現存12天守のひとつで国宝。大津城を移築したと言われ、1607年(慶長12年)に完成。国宝天守は、彦根以外は姫路、松本、大山、松江だけ。麓から長く、曲がった石段の道を歩き、暗く、狭く、急な階段を登るがこれが大変だった。築城当時のままなので、当然敵が登りづらい構造なため、転げ落ちそうになる。国宝で改装工事は難しいと思うが、落下の危険性が高いと思う。お年寄りや子供に優しい構造に是非とも直してほしい。 |
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多賀大社(2023.3.29) ご祭神は日本最初の男女神とされる伊邪那岐大神と伊邪那美大神で天照大御神の親神。お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢のお多賀の子でござると言われ、生命の大神であり延命・縁結び・厄除けの神として多くの信仰を集めている。年間170万人の参拝客があるという。鎌倉時代の蒙古襲来の時、北条時宗が外敵逃散の祈祷をしたことで有名。お土産の糸切餅が有名で美味しい。 |
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上野三橋遺跡(2023.2.1) 江戸時代に不忍池を水源とする忍川に架けられていた三つの橋。中央にあったは徳川将軍が寛永寺に参拝する際に通った橋は御橋と呼ばれた。浮世絵や江戸名所図会にも描かれていたが、明治時代に暗渠化された。最近、元の位置の近くに復元保存されている。甘味処のあんみつのみはしの店名の由来とされる。 |
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麟祥寺(2023.2.1) 徳川家光の乳母春日局の菩提寺。父は明智光秀の重臣齋藤利三、母は稲葉良道の娘。稲葉正成の妻となるが、乳母となるため、離縁した形をとったといわれている。大奥制度を構造的に整備し、政治的にも影響力があったといわれる。また、お寺の前を走る春日通りの由来ともなっている。遺言で死後も世の中を見守るため、お墓の上部に大きな穴が開けられている。境内には元夫の稲葉家のお墓もある。 |
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小野神社(2022.6.15) 武蔵の国一之宮で延喜式社。現在では余り知られていないが、中世には後北条氏や太田道灌の尊敬を得ている。府中にも小野神社があり、多摩川の氾濫による水害により遷座されて本社、分社の2社になったといわれている。神社の前のくねくねした水路がある広い道や渡しの跡などかつての多摩川の水運の要衝として栄えた場所と思われる。ちなみに大宮の氷川神社は三ノ宮。 |
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代々木八幡遺跡(2022.6.1) 代々木八幡にある縄文時代の復元住居跡。1952年に発掘調査された縄文時代(約4500年前)の竪穴住居跡。国学院大学の樋口清之教授の指導のもとで復元されている。標高は32mあり、幡ヶ谷丘陵の南に突き出した半島の端に位置している。この場所から加曾利式土器や石器類が出土していて、近くに展示されている。 |
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鳩が森神社富士塚(2022.6.1) 千駄ヶ谷の鳩が森神社にある寛政元年(1789年)に築造された富士塚。頂上まで通年登ることが出来、頂上近くには富士山の溶岩が配されている。高さ6m、直径25mで都内に現存する最古とされる江戸八富士のひとつ。都指定有形民俗文化財。 |
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武蔵府中熊野神社古墳(2022.5.15) 飛鳥時代の7世紀に作られた上円下方墳で国の史跡に指定されている。日本には数例しかない珍しい形で10年ほど前に石覆が復元された。下方の一辺は32m、上円は直径16m、残念ながら副葬品の殆どが失われているが、鞘尻金具やガラス玉などが見つかっている。また石室からはお棺の釘や繊維片も発見され、かなり身分の高い被葬者と推定されている。多分皇族の血縁者か帰化人かもしれない。 |
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赤羽八幡(2021.9.29) 初秋の一日義弟と北区赤羽の史跡を訪ねた。 赤羽八幡は、武蔵の武蔵野台地が関東平野に東北端に突き出した位置にある。延暦3年(784年)坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐の際、陣を敷き3柱を勧請し戦勝祈願したことにより創建された。その後源頼光、頼政、太田道灌等により再興された。台地の上に建ち、社務所の下に上越、北陸新幹線、埼京線のトンネルが作られているため、鉄道ファンには人気のあるスポットにもなっている。 |
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稲付城址(2021.9.29) このところ中世の城跡を訪ねているが、今回は太田道灌が築城した稲付城址に建つ静勝寺と法真寺を訪れた。 法真寺は天正元年(1537年)に天海上人の弟日寿上人が開山。武蔵野台地の中腹にあり脇に岩槻街道が通っている。手入れされた枯山水の庭が素晴らしい。新編武蔵風土記にも載っている。 静勝寺は、岩槻街道沿いにあり三方を丘陵に囲まれている。太田道灌が江戸城と岩槻城を中継する山城として築城。昭和62年の発掘により空堀が確認されている。太田道灌の死後1504年に道灌の一族が道灌寺として建立。江戸時代に太田氏の菩提寺とされ、明暦元年(1655年)に道灌の木像を安置する道灌堂が造営された。 |
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馬込城址(2021.8.21) 大田区馬込にあったとされる中世の城跡。戦国時代後北条氏の家臣梶原助五郎の所領にあったとされる。東は北野神社、西は湯殿神社、南は臼田坂下、北は馬込図書館までに及ぶ。城主の館は湯殿公園にあったといわれる。城の構えは周囲の急な崖と低地には内川が流れ、低湿地帯が広がる天然の要害。近くの池上本門寺や九品仏の浄真寺にも中世の城などがあったといわれている。帰りに立ち寄った梶原景時ゆかりの万福寺には宇治川の戦いで活躍した磨墨のブロンズ像がある。最近、東京の寺社と地理の関係に興味を持って調べている。 |
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旧公衆衛生院(2019.10.22) 昭和13年に国立の国民の保健衛生に関する調査研究及び公衆衛生の普及活動を目的に機関の建物。2002年まで使用され、2018年に港区郷土歴史館としてオープン。中央ホール、旧講堂、旧医院長室などが保存されている。正面の中央エントランスから建物の威容には圧倒される。 設計者は東京大学の安田講堂を設計した内田祥三。よくもこのような大きな建物が空襲で都内(港区白金)破壊されず残っていたものだ。 |
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仁徳天皇陵(2019.9.8) 堺市の百舌鳥古墳群にある世界最大の前方後円墳。全長は486メートル。伝仁徳天皇陵と言われているが、実際は別の被葬者だといわれ、大仙古墳と学会では言われている。世界遺産に登録されたが、教科書に載っている全体像は残念ながら飛行機からしか見られない。拝所前で子供のころ外堀で泳いだことかあるというボランティアガイドの女性の説明を受け、堺市市役所の21階の展望台に登る。先月は東京であった百舌鳥古墳群シンポジウムに参加した。今後全体がみられるような施設が望まれる。 |
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関ヶ原古戦場(2019.9.7) 1600年にあった天下分け目の関ヶ原合戦。東軍の徳川家康と西軍の石田三成が激突し、当初西軍有利だったが、西軍の小早川秀秋の裏切りで東軍が勝利した。今回は歴史民俗資料館と家康の最終陣地跡と東首塚を見学する。最初家康が陣を構えた桃配山や三成が陣を構えた笹尾山を遠くに眺める。この地は古くから西と東ので、古くは不破の関があり、壬申の乱では大海人皇子と大友皇子がこの地が戦いました。 |
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仙台城跡(2019.2.10) 2019年2月の家族旅行で訪れた。仙台城(青葉城)は1601年に伊達政宗が築城を始めた居城。青葉山に作られたので青葉城ともいわれる。国内屈指の名城と言われる。一ノ丸跡地は市街を一望でき、伊達政宗の騎馬像で有名。騎馬像の台座には政宗の若き日の姿のレリーフもある。以前会社の歴史研究会のメンバーで訪れての懐かしく思い出した。。残念ながら城の遺構は明治の大火や太平洋戦争の空襲ですべて焼失した。 |
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瑞鳳殿(2019.2.10) 伊達家の御霊屋。あの独眼竜で有名な政宗が眠っている。もともとの建物は1637年に造営されたが、仙台空襲で焼失したが、1979年に再建され、創建当時の鮮やかな色彩の彫刻や文様が再現されている。豪華絢爛さは桃山時代を今に伝えている。ボランティアガイドによると伊達家は秀吉や公家におくられた9つの家紋があるという。近くには2代忠宗の廟感仙殿、3代綱宗の廟善応殿がある。 |
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浜松城(2018.1.7) 2018年の新年家族旅行で訪れました。浜松城は徳川家康が三方ヶ原で武田信玄に敗れ逃げ帰った城で、その後、家康が天下統一後にこの城に入った譜代大名が出世したことから、出世城として有名になりました。天守閣は140年ぶりに再建されまものですが、石垣は創建当時の野面積みの石垣が残されています。また、天守台の地下には井戸が当時のものが残されています。このところ昨年の駿府城に続き、家康の城に縁があります。 |
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登呂遺跡と駿府城(2016.9.10) 50年ほど前に読んだ登呂の記録以来、長年憧れの登呂に行ってきました。日本考古学発祥の地と言われています。静岡駅からのバスを降りると目の前の広大な場所に水田や復元住居が点在しています。まずは敷地内の博物館に行き、発掘された木製品などを見学。膨大な木製品がよく残ったものだ。最近775点が重要文化財に一括指定されています。ボランティアに説明を受け、理解がより深まった。駿府城は徳川家康が江戸に移る前と晩年をすごした場所で、東御門や櫓などが復元されている。場内にある徳川家康像やお手植えのみかんの木があります。現在は公園となり市民の憩いの場となっています。 |
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下谷坂本富士(2016.7.1) 野照ア神社にある富士塚。天明年間の1782年に富士山より溶岩を船積みし、隅田川より荷車で運ばれ築山された。築山されて230年経っているが、当時の姿をよく留めている。高さは5メートルほどだが、登山道がジグザぐに設けられていて、ちょうとした登山気分を味わえた。公開は山開きの6月30日、7月1日のみ。国の重要有形文化財に指定されている。昭和中期まで富士五湖を模した池や胎内洞穴を模した大きな横穴もあったという。 公開期間中、町内会の保存会の方が説明文を配布している。 |
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千駄ヶ谷富士塚(2016.6.27) 千駄ヶ谷の鳩森八幡宮境内にあり、寛政元年(1798年)に造られたといわれ、都の有形民俗文化財に指定されている。頂上付近には富士山の溶岩が配されている。山裾に浅間神社、頂上に奥宮が、途中に洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ岩が再現されている。造られた当時の原型を留めている都内では数少ない本格的な富士塚。富士塚案内図は最近新しく作られた。帰りに明治神宮まで歩き、久しぶり参拝した。明治時代に作られた人工の森もみごとに自然の森となっている。ここも中国人をはじめ外人の観光客で賑わっていた。 |
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白山富士(2016.6.17) 文京区白山にある富士塚。あじさい祭り期間中のみ公開され、登ることができる。途中にもあじさいが植えられており、目も楽しませてくれる。頂上には小さな社があり、季節の果物や野菜が供えられていた。外国の観光客を含め多くの人が登っていた。昨年は残念ながら登ることができなかったが、今年は無事登ることができてひと安心。これで品川富士をいれて4つ富士塚に登頂したことになるが、本家の富士山にはまだ登れていない。 |
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多摩川富士塚(2016.6.14) 多摩川浅間神社にある富士塚。もともと古墳があるところに神社が作られている。創建は800年前の鎌倉時代で北条政子がこの地に祭ったといわれている。ここから多摩川越しに富士山を見ることができる。参道の途中には勝海舟の筆による富士講中興の祖の石碑がある。 |
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万両塚(2016.2.5) 紀州藩徳川頼宣の娘、家康の孫にあたる芳心院の墓所。池上本門寺にある永寿院にある巨大な宝塔。これだけ広大なお墓は珍しい。蛇嫌いの姫のために中央の宝塔の周りに二重の堀が廻らされている。周りには2000年前の弥生時代の住居跡や古墳時代の堤方権台古墳の一部も再現されている。古墳からは埴輪や馬具も出土している。宝塔の脇には侍女達のお墓や供養等もあり、信仰の深さが偲ばれる。 |
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十条富士(2015.12) 都内七富士巡りのひとつ。十条地区の人達が江戸時代から現在まで信仰している。6月30日、7月1日に大祭が催され、多くの人でにぎわうという。塚には約30基の石造物があり、天保年間の記述もある。もともとここには古墳があり、これを利用しているらしい階段があり、よく整備されている。 |
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江戸城天守台(2015.12.6) 皇居乾門通り抜けの帰り久しぶりに江戸城を散策した。 天守閣は家康、秀忠、家光の時代に3回作られ、家光の時代に明暦の大火で消失し、以後再建されなかった。天守台は東西41m、南北45m、高さ11mで、天守閣の高さは51mあったといわれている。現在は天守台の上までは登ることができる。現在NPOによる天守閣復元プロジェクトが立ち上がっている。 |
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野毛大塚古墳(2013.11.29) 等々力駅から環八を上野毛方向にしばらく行くと、野毛公園があり、その一角に見事に復元整備されている。5世紀後半の帆立貝形前方後円墳で副葬品は、鉄刀、鉄製短甲などの武器類の出土が南関東でスバ抜けて多いという。墳丘には登ることができ、テラスには円筒埴輪(複製)が並べられている。また、頂上部には埋葬の様子がわかるように副葬品がタイルに描かれている。 |
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御岳山古墳(2013.11.29) 等々力不動からすぐの目黒通りに沿いにあり、元は御嶽神社かあったが、今は門に鍵がかかっていて、中に入ることは出来ない。直径42M、高さ7Mの前方後円墳で、5世紀頃のものといわれている。出土品は鉄剣、鉄ぞく短甲などがあり、被葬者は武人といわれている。 |
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等々力渓谷横穴墓群(2013.11.29) 目黒通りからすぐの等々力渓谷にあり、1号、2号、3号の3基あり、3号墓が石室が公開されているが、今日は保存整備のため係員がきていて作業中のため、残念ながら近くにからは見ることは出来なかったが、作業していた方が簡単な説明をしてくれた。これも5世紀くらいのものらしい。出土品は世田谷郷土博物館で展示されている。 |
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亀甲山古墳、多摩川台古墳群 (2013.11.20) 目黒線の多摩川駅にて下車しすぐのところにあり、アクセスはすこぶる良い。今日の目的は、亀甲山古墳と古墳展示室だが、公園からの眺望は最高で、丹沢から富士山まで見えた。古墳は4世紀から7世紀までのもので、亀甲山古墳は国指定の史跡で荏原台古墳群最大のもの。また、古墳展示室では、出土品などがわかりやすく展示されている。多摩川台古墳群は、1号から8号墓まであり、公園内に原型がよく保存されている。 |
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東大遺跡見学会(2013.11.22) 今朝の新聞に本郷の東大キャンパスでの遺跡見学会の記事が載っていたので、さっそく行ってみた。東大構内に入るのは初めてだったが、意外と一般人も多く、黄葉したイチョウをバックに絵を画いている人が多かった。また、国内はもとより海外の観光客と思われる人もみられた。帰りに安田講堂や三四郎池などを見て回ったが、残念ながら東大総合研究博物館は休館でした。 |
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今回の遺跡は、関東大震災で消失した明治時代の図書館跡と江戸時代後期(150年前)の加賀藩大名屋敷跡です。藩邸跡からは井戸や地下室などが発掘され、生活道具のほかかんざしや鏡など奥女中の使用したものなども見つかり、展示されていた。現場は新聞を見た人が午後の部で100人以上あつまり盛況でした。歴史に興味を持つ人の多さに驚きました。 | |
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