「マントを着た捨て猫」
その夜、僕は夜中で暗くなった駅前の商店街の一軒の店先で雨宿りをしていた。
「今日は散々な日だな」、なかなか止みそうにない空を見上げながら、
思わず独り言をつぶやいていた。
「やっぱり、貴方と趣味が合わないみたい。」と1時間前に
彼女に言われ、帰宅する途中だった。
「こんな日は酒でも飲んで布団に入ろう」と思い、
上着を頭にかぶり、一気に家まで走って帰ろうとした時だった。
「どうぞ、入っていってください。」と優しげな女性の声がした。
声のした方を振り向くと、走りだそうとした足が地面に
吸い付いたように動かなくなってしまった。
黒い色の大きめの傘を持ち、わずかに街灯に照らされている
容姿は、足首まであるベルベットの様な黒いマントに覆われていた。
足下から視線を上げていくと、一点で動かなくなってしまった。
「こんな美しい人がいるのか!」思わず口から出そうに
なるのをこらえるのが精一杯だった。
街灯に映し出された顔は、まるで透き通る様な白い肌、
見透かされそうな澄んだ瞳、すらっとした鼻筋、
赤く情熱を帯びたような唇、かすかに微笑んでいる口元。
口が半開きになっているのも忘れて見とれていると、
「さあ、どうぞ」半歩前に出て傘を差しだしてきた。
僕は「あっ、ど、どうも」と応えるのが精一杯だった。
女性は僕を傘に導き、何事もなかった様に答えた。
「家までお送り致しますわ。」と言いながら、僕の右腕をとり、ゆっくりと歩き始めた。
「こちらの方向でよろしかったのですわね」と女性が問いかけてきた。
「ええ、でも知ってらっしゃるのですか?」ふと、女性に問いかけてみた。
「よくお見かけいたしますから。」女性は微笑みながら答えた。
「もっとお寄り下さい、濡れてしまいますわ」と言いながら、
女性は照れ隠しのように、僕の腕に甘えるように体を近づけてきた。
微かに女性から甘い香水の香りが漂ってくる。
女性の顔に見覚えは無かったが、以前から知っている様な感じを受けていた。
「こちらのアパ−トですわね。」
いつの間にか公園の隣にある僕のアパ−トの所まで来ていた。
「あっ、本当に助かりました。有り難うございました。」
そう言いながら彼女を見ると、肩口からマントが大きく濡れていた。
「こんなに濡れてしまってすみませんでした。
僕の部屋で乾かして行って下さい。」
「大丈夫ですわ、それでは御迷惑ですし・・」
「いえ、それ位はさせて下さい。それ位しか御礼も出来ませんから。」
「それでは御言葉に甘えさせて頂きますわ。」
鍵を開けると寒い部屋に彼女を招き入れた。
僕は部屋に入ると、すぐに暖房のスイッチを入れた。
「どうぞ、上着を脱いで・・」と言おうとして彼女を見ると、
着ているマントは何事も無かったように乾いていた。
「気になさらないで、それよりも・・・」と言いながら彼女は心配そうな顔を向けてきた。
「今日は寂しそうな顔をなさっていましたわ。」
その言葉に、彼女の澄んだ瞳と目が合ってしまった。
「振られたんです。」ゆっくりと腰を下ろしながら、
僕は昔の事であるかの様に、落ち着いた感じで話していた。
「そうでしたの、でも貴方が優しく思いやりのある方だと知っておりますわ・・」
彼女の方を振り向くと、彼女はゆっくりとそばにより、
母親が子供を抱き寄せるように、マントで僕の頭を包み込みながら、
ゆっくりと胸元に抱き寄せていった。
「僕のことをどうして・・・」言いかけた言葉をさえぎる様に、
「それ以上は言わないで」と、彼女が抱き寄せている腕の強さを増しながら言った。
どれ位、時間がたったのだろうか。
ふと気がつくと僕の体は、彼女の黒いマントに覆われていた。
彼女の方を振り向くと、優しく微笑みながら
「そのままでいいのよ・・・」ゆっくりと金色をした髪飾りをはずしながら唇を重ねてきた。
ほどけた髪がサラリとゆれ、優しい香りを漂わせていた。
まるで母親に抱かれている子供の様に、すっかり安心していた。
彼女はゆっくりとマントを開き始め、僕は視線が釘付けになってしまった。
マントの下は一糸まとわぬ、生まれたままの姿であった。
「ビ−ナス!」僕はこの言葉しか浮かばず、彼女のためにある言葉だと思った。
「貴方もたくましくてすてきですわ・・」
彼女の言葉に慌てて自分の体を見ると、僕も生まれたままの姿になっていた。
びっくりしていると、彼女は
「さあ、このマントで一つになれますわ。」というと、マントの左右の裾を持ち、
ゆっくりと僕を包み込み始めた。
かすかな衣擦れの音をたてながら、ベルベット様な優しい感触を感じながら、
僕の体は黒いマントに覆われていった。
「マントを着ていると、とても優しい気持ちになれますの。」
僕に優しく話しかけながら、再び唇を重ねてきた。
僕は彼女にすっかりと身を預けていた。
彼女の優しい愛撫をマントの中で受けていた。
彼女はゆっくりと唇を離すと、
「こちらに・・」と僕をベットへ導いていった。
僕はベットに仰向けで横たわった。
彼女はゆっくりとマントの前を開け、僕の上に乗ってきた。
「そのままで・・」
と、彼女は言いながら、僕自身を彼女の中に導き始めた。
彼女はとても暖かく、楽園のような甘美な香りを放っていた。
唇が再び重なり、彼女はマントを持ちながら、僕をしっかりと抱きしめてきた。
彼女が動く度にマントが優しい感触で僕を愛撫してくる。
いたわるように、励ますように、愛するように・・・・
やがて僕は限界に達し、薄れゆく意識の中で彼女の言葉を聞いた。
「いつも有り難うございます。私はいつでもそばにおりますわ・・」
カ−テンの隙間から朝日が射し込み、僕の顔を照らし始めていた。
ゆっくりと目を開け、辺りを見回しても彼女の姿はなく、部屋の中は
いつもと変わらないものだった。
「夢だったのか・・・」と思いつつ、ゆっくりとベットから起き上がり、
モ−ニングコ−ヒ−を入れ始めた。
しばらくして、紙袋を持ち隣の公園に向かった。
いつものベンチに座ろうとすると、何匹かの猫が集まってきた。
この公園は捨て猫たちが多く、僕も一人の寂しさを癒すため、
毎日訪れ、餌をあげていた。
その内の一匹が、食事に満足したのか、僕の足にすり寄って
甘えた鳴き声をし始めた。
僕は抱き上げて、優しく撫でていると首輪がしてあり、
よく見ると彼女がしていた髪留めと同じ模様を見つけた。
顔を見ると彼女と同様、とても澄んだ瞳をしていた。
「そうだったのか・・、ありがとう」
猫を抱きながら言うと、「にゃ−ご」と返事が返ってきた。
しかし、それ以後彼女に出会う事はなかった。