【番外編】あおの煌めき








真昼の日差しに照らし出される波打ち際。
かつてこの付近一帯が堤防だったという時の名残か、今では邪魔だとばかりに浜辺の隅に押しやられている岩の上に座り込みながら、キラは大海原を見つめていた。


視界に広がるのは、ふたつのあお色。

遠くに引かれる水平線を境に、同じ『あお』と表現できるけれども決して混じり合わぬ蒼天と碧海が己の領分を主張するように広がっていた。

海側に放り出している裸足の足をぶらぶらとさせれば、下を向けた足先がひんやりと冷たい水に浸かる。
ちゃんとひざ上辺りまで捲っているにもかかわらずスカートの裾に所々水が染みているのは、時折訪れる高めの波が壊れる時に跳ね上がった雫のせいだろう。
気付いてはいたけれど、それでもあまり気にはならなかった。

きらりきらりと光に反射しながら形を変えてゆく水面の模様を眺めたりしながら、キラはずっと初めて間近で見ることが叶った海を眺めていた。



「キラは海が好き?」

見上げれば、そこにはいつもと変わらない優しげな表情を浮かべたアスランが立っていた。
けれどその中にはどこか苦笑のようなものが混じっている。
きっとあまりにも自分が海ばかりみてるからなんだろうな………と。
中天に差し掛かった太陽が容赦なくキラの瞳を灼くので、キラは大きな紫色の瞳をぎゅうっと眇めながら彼を見上げてそう思った。

「ん……とっても、きれいだから」

海は好き。
奇麗だし、それに……触れることができるから、好き。
体を浸して沈めれば、まるで自分が海のいきものになったみたいに思えるから。
こんな自分でも、まるで受け入れられているみたいに、思えるから……。

でもそれ以上に、キラは空も好きだった。

青くて奇麗で大きくて……すぐそこにあるみたいに見えるのに、決して手は届かない。
一番近くて、でもきっと一番遠い場所。
鳥のように飛べたらなぁと願っても、背中に羽が生まれることはないから。
だからキラは、ただ見上げるのだ。
届かないと知りつつも、そっと手を伸ばすのだ。

空は好き。
届かないから、好き。
どんなに頑張っても届かないから……。

だから、ずっと求め続けるのかもしれない。
届いてしまえば、きっとそこで終わり。
いつまでも手が届かないから、きっとずっと永遠に焦がれ続ける。





いつの間にか自分の隣に腰を下ろしていたアスランの横顔をを少しだけ盗み見て、キラは思った。

空と、このひと。
少しだけ、似ているのかもしれない。


視線に気付いてキラを振り返ったアスランは、鮮やかな緑柱石の瞳をふわりと和めて微笑みを浮かべた。
いつもと変わらない、優しい微笑み。
それを向けられて、キラの心には大きな安堵と、そして少しだけ翳りも生まれる。


……このひとは、いつまでこうやって自分に微笑んでいてくれるんだろう。
思う度に、キラの胸を鋭利な刺がチクリと刺すのだ。



自分が足手まといなのは、最初から十分に分かっていた。
アスランに拾われ、アスランと一緒に行くことになってもう何ヶ月も経つけれど、それは今でも少しも変わらない。

まだ子供な上体つきも小さくて貧弱な自分は、どう頑張ったってアスランと同じペースで歩けない。
体力もないから、長い時間動き続けることもできない。
力もないしものも知らないから、いつも自分だけで平気だからとひとりで旅の全てを決めて準備をしてくれるアスランの手伝いすらまともにすることができなくて─────。

ただでさえ自分のような旅に向いていない子供を連れているのだから、アスランにかかる負担はかなりのものになってしまうだろうことは、いくらあまり物を知らないキラでも分かることだった。
アスランひとりだったらもっともっと全てが易しくいくのにと。
そんなものを全く感じさない微笑みを見上げながら、何度思ったことだろう。



しかも、それに加えてキラにはもうひとつ自分がアスランの負担になってしまっていると思う理由があった。

キラが抱える最大の問題。
それは、外に知られるとひどくやっかいなことになる事情でもあった。
キラもまた自分の抱えるものが外に与える影響を少なからず知っていたから、だから隠そう隠そうと注意していたのに。
それなのに、大切なときに失敗ばかりして……。

───さっきだってそう。

キラがそうじゃなかったら、あんなに騒ぎになんてならなかった。
アスランに嫌な思いさせることも、迷惑をかけることだってなかったのに………。

(それでも、アスランは…なんにも言わない……)



ゆっくりとした動作で繰り返し髪を撫でてくるアスランの手に、キラはつ…と俯いた。
優しい手。
思わず涙が込み上げてきそうになるくらい。
こんなに優しくされていいのだろうか。
彼と共に行くようになって、もう何度心の中でそう問いかけただろう。
そして何度───否、と答えをだしただろう。
自分は、そんな風にしてもらえる存在じゃないのに。
そんな風に優しくしてもらえるようなこと、何も返すことができていないのに……。


キラは、暫く俯いたままだった。
アスランはそんなキラに何を言うでもなく、ただずっと髪を撫で続けていた。





『こいつ…奴隷だ……っ!!なんでこんな所に奴隷なんかが………』


突然に叩き付けられた言葉。
相手は、それまでは普通に笑顔を向けてくれていた青年だった。
ひらひらとほどけているそれを見て、キラが怪我をしていると勘違いして心配してくれて、手当をしてくれようとしていた親切な………。


(……ごめんなさい)


自分がこんなものを体に刻んでいなかったら、あんなに嫌な思いさせずに済んでいたのに。


キラはそっと自分の左手を見下ろした。
真っ白な包帯。
先ほど不注意で小枝にひっかけてしまったせいで、ところどころが破けてしまっている。
けれど、キラがそれを手首に巻いているのは、決して怪我をしているからではなくて……。

その中に隠されているのは、忌わしい痕。
キラの消せない過去の証。
そして、キラの抱える一番大きな苦悩の根源となるもの。


『ここはお前なんかが居ていい場所じゃないんだ!早く目の前からいなくなれ……っ!!』

 
叩き付けられた、罵声。
騒ぎに気づいた周囲の人たちに止められて、その青年はすぐ別の場所に連れて行かれてしまったから、それ以上後に続く言葉はなかった。
けれども彼は、その場から遠ざけられる間中ずっとキラを睨みつけていた。
まるで汚いものを見るかのような視線で─────。



あの言葉に、態度に、傷つかなかったといえば嘘になる。
けれど、最初に向けられていた笑顔が驚愕を経て嫌悪に染まる様を見ながら、どこかであぁやっぱりと自然に受け止める心もあったのだ。
今までだって、ずっとそうだったから。
まだ奴隷として囚われ飼われていた決して少なくない時間の中で、キラは自分たちに向けられる周囲の視線がどれほど冷たいのかを身を以て知っていった。
嘲りと、侮蔑と、こころのない見下した同情。
向けられるのは、いつもそのなかのどれかでしかなかった。
口汚く罵声を浴びたことも、理不尽に手を上げられたことも、もうとうに数えきれないくらい。
キラにとっては、それが日常だったのだから。

だから、理不尽な罵りを受けても、キラの心には悲しみこそぼんやりと浮かんできたとしても、怒りは微塵もなかった。
それがあたりまえの世界で生きてきた。
だって、自分たちは、そういう存在なのだから。
ずっとずっと、そうやって生きてきたのだから。


肌に焼き付けられたこの烙印がそれを知らしめる。
自分はみんなと違うと。
同じ存在にはなれないのだと。
あの暗く冷たい檻の中から抜け出しても、それは変わらない。
こうして青い空の下に出て 自由に大地を駆けることができるようになっても、変わらない。


(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい………)


だからキラは、ただただ申し訳なくて、何度も何度も心の中で謝り続けた。
あの親切にしてくれようとした青年に。
騒がせてしまった街の人たちに。
そして何よりも………自分のせいで街の片隅においやられてしまったのに、責める言葉も嫌な顔もなにひとつすることなく、こうして変わらずに接してくれるアスランに。

ここにいてごめんなさい。
迷惑をかけてごめんなさい。

そう、ずっとずっと謝り続けていた。







どのくらい、そうしていただろう。
じっと俯いたまま罪悪感と自己嫌悪の渦の中に沈んでいたキラは、優しく触れていた手がいつしかなくなっていたことに全く気づかなかった。
そしてそれまでずっとすぐ傍にあった気配が一度遠ざかり、そして暫くした後に再び戻ってきたことにさえも。


「キラ、顔を上げてj


声に導かれてのろのろと視線を上げた先。
見えたのは、抜けるような真っ青な空と。
出会ってから今までずっと傍に在りつづけてくれた人の、凪いだ湖のようにおだやかな眸。


「これ、キラに」


彼はキラの小さな手をすくい取ると、そこに何かをそっと押し付けた。

戸惑いつつも、見下ろした自分のてのひら。
微笑みとともに渡されたのは、緑色をした奇麗なリボンだった。
するりとした滑らかな手触りがキラの手のひらに優しくなじむ。
萌える若葉の色にも似たそれに、キラはつかの間見惚れた。


「これ……」
「あげる」
「え…………?」
「キラにあげる」
 

言葉の意味を飲み込むまでに、心臓が十回は鼓動を打つ間があったかもしれない。
ようやく差し出されたリボンの意味を知ったキラは、思わずその場に立ち上がってしまった。

あげる、ということは、くれる、ということ。
キラにくれるって。
こんなに奇麗なものを、キラに。


「え…ぇええ……っ?!」

 
思いがけないアスランからのおくりものに、キラの口からは悲鳴にも似た声がこぼれおちた。
それまでずっと頭を埋め尽くしていた暗く沈んだ思考も罪悪感も、今はもうすっかり頭の片隅においやられている。
それくらい、驚いたのだ。


「その反応は……どう取ればいいんだろうな」
「え……だ…だって……」


座り込んだ姿勢のままキラを見上げてくすくすと苦笑しているアスランに、キラの頬にうっすらと朱が散る。
ひとりだけ慌てている自分が、恥ずかしかったのかもしれない。

アスランは立ち上がったまま所在なげにおろおろと視線を泳がせているキラの手をそっと掴んで、自分の隣に座るように促した。
いまだに困惑したように寄せられた眉のあたりをゆっくりで辿って、そのまま指先に触れた前髪を梳きおろす。


「キラは空とか海が好きなんだろう?だから……本当は青があれば良かったんだけど、それだけなくて。だから独断で緑にしてしまったんだけど………気に入らなかった?」
「ち、ちが……っ!とってもとっても、きれいだなって。…ほんとうだよ?」
「そう?それなら良かった」
「でも……そんな…ほんとうに、いいの……?」


───僕がもらってしまっても、いいの?


ためらいがちで控えめ声音。
見上げてくる大きな瞳に微笑みひとつで応えて、アスランはもちろんと頷いた。
君のためのものなのだからと。


「あ、あの……じゃあ………なにをすれば…いい?」
「え?」
「できること、あんまりない…けど。僕に、できることなら……なんでも」
「………キラ?」


つたない言葉づかいで、それでも一生懸命にそう訴えてくるキラにアスランは一瞬戸惑った。
キラの言葉には前後の脈略がないように思えたから、何のことをいっているのか、すぐには分からなかった。
………でも。
かすかに震えているようにも見えるすみれ色の瞳や小さな手を見ているうちに、なんとなくその答えが見えてきた気がした。



(ああ、そうか……この子は……)


───キラは、きっと与えられることに慣れていないのだろう。

ほんの少し前までは奴隷として生きてきた少女だ。
一方的に奪われることこそあれ、好意から何かを与えられるなどということがあったとはとても思えない。
キラにとって何かを受け取るということは、必ず等価交換という方式に置き換えられるのだろう。
受け取るだけの理由がなければ………引き換えに何かを差し出さなければ、リボンひとつすら受け取ることができない。
彼女自身の心の奥底に刻まれた暗い傷跡がまたひとつ、透けて見えた気がした。


そんなことする必要ないんだよ?───と。
どこかもどかしい思いを抱えそう言おうとして、アスランはぐっと口をつぐんだ。
きっと、今それを言ったとしてキラにはうまく伝わらないだろう。
ずっとずっと、そうやって生きてきた子だ。
今ここでキラの考えや姿勢を否定してただ受け取らせたとしても、きっとその心に混乱を生むだけになるだろう。

暗い夜の闇の中で出会い、そして共に行くようになってから、たった数ヶ月………それでもその数ヶ月間で分かったことや思い知ったことがいくつもある。
キラの心の傷を治し、そして今までの奴隷としての生活から外の世界の常識や生活に馴染ませるには時間が必要なのだということも、今までの過程でよくわかっていた。
それは違うとか、そんな必要ないとか、そう口でだけ言って言い聞かすのはとても簡単なことだけれど、それだけではキラにはちゃんと伝わらない。
分かっているからこそ、アスランは口をつぐんだ。


今日の街での一連の出来事は、決してキラのせいではなかった。
確かにキラがきっかけで起こったことではあったけれど、それによってキラが責めを負わなければならないなどということはあり得ない。
少なくとも、アスランはそう思っている。
けれども、自分のせいだとずっと自責の念にかられていたのを知っていたから、少しでもその心の慰めになればと柄にもなくこんな行動を取ってしまったのだけれど………逆効果になってしまったのだろうか……?

そこまで考えて、アスランは内心でいや…と首を振った。
これをひとつのきっかけにしていかなければいけない。
アスランはふぅっと一息深く息をつくと、いまだ縋るような視線を向けてくるキラに向かって、そっと微笑みを向けた。


「………じゃあ、今度キラにひとつお願いをしようかな」
「おねがい………?」
「ああ。今は思いつかないから、決まるまで取っておくことにするよ」
「……そんなことで、いいの?」
「まだ内容も言ってないのに、そんなこと言っていいのか?すごく大変なことお願いするかもしれないよ?」


そんなことするつもりはさらさらないけど……という内心の声は、もちろんアスランにしか聞こえない。
冗談めかした表情と言葉に、キラは一瞬きょとんとする。
言葉の意味を飲み込むまで少しタイムラグがあって。
そのあと少し……ほんの少しだけど、おかしそうにちいさく口元を綻ばせたように、見えた。

キラは手のひらからはみでているリボンを、どこかおっかなびっくりといった風情で指先で辿って……そして大事な大事な宝物を扱うような仕草でそぅっと手の中におさめて。
目の前のアスランを見つめながら、少しだけ滲んだ瞳で、ふわりと微笑んだ。


「……アスラン」
「ん?」
「これ……あり…がとう。とっても…嬉しい。たいせつにするね」
「うん、そうしてくれたら俺も嬉しい」


久しぶりに見ることができたキラの心からの笑みに、アスランもまたつられるようにして表情を緩めた。
微笑みをよく花が咲いたようだと例えることがあるけれど、きっとそれはこんな様子のことを言うに違いないと、アスランは思う。
まだあどけなさが多分に残る頬が描くはにかんだような笑みは、まさに花のようだった。





アスランからキラに渡された緑色のリボン。
初めてキラがアスランからもらったおくりもの。

それは、当初はキラの髪の毛を鮮やかに飾るものになる予定だった。
けれどその予定には反して、今ではキラの左の手首を飾っている。

キラが決めたことだった。
ずっと目に入るところにあるのがいいからと。
ずっとずっと触れていたいからと。

今まで忌まわしい痕を隠していた真っ白な包帯のかわりに、新たに巻かれるようになった奇麗な緑色。
それをキラがいつもどんな気持ちで見ているかは、アスランにはわからない。
けれど、左手を視界に入れる度に痛みを覚えているような瞳をすることが多かったキラが、リボンを左手にするようになってからは段々と沈み込む回数が減っていったように思う。
だから、わざわざ問うことはしなかった。
良く変わっていくのなら、それ以上に望むことはないのだから。







「キラ、そろそろ行こう」
「はい!…トリィ、いくよー?」


今日も、キラの左手には緑色のリボンが飾られている。
既に体の一部のようになったそれは、あの頃よりも少しだけくたびれたようにも見えるけれど、それでも相変わらず色鮮やかにキラの細くて白い手を彩っていた。

空から舞い降りてきたトリィが、掲げた手にふわりと着地する。
羽を左手で優しく撫でると、トリィはふわふわと自分の顔の近くをただようものに気づいてくちばしをよせてつついた。

「あ、だめだよトリィ。ほつれてきちゃう…」

悪戯なくちばしをつんとつついて、キラは自分を呼ぶひとのへと振り返った。
キラがひろった愛らしい小鳥。
キラを世界に連れ出してくれたひとの、優しくて真っすぐな眸。
そして……そんな彼がくれた、最初のおくりもの。
そのどれもが、何故かみんな同じ色をしていることに気づいたのは、実は最近だった。
少しずついろみや雰囲気が違っているけれど、どれもがはっと目が覚めるくらい奇麗な緑色。

いつからか、キラが一番好きになった色。


(空も、海も、大好き。青色も、すいこまれそうなくらい奇麗だから、好き………)

────でも。


キラは何かを確かめるように一瞬空を仰ぐ。
そして、トリィとともに駆け足で自分達を待つアスランのもとへと駆け寄っていった。
アスランは、怪我をするよと苦笑しながら、それでも穏やかなまなざしでその様子を見守っている。
キラの大好きな、どこまでも優しい緑色をした瞳で。
そういえば、緑色のことも『あお色』と呼ぶこともあるのだと、いつか寄った村のおばあさんに教えてもらったことがあったっけ。


(今は、この色が一番好き………だよ)


まだキラの一番好きな色が晴天の青色だと思っているこの人に、今度そう言ってみよう。
空のあおも海のあおも好きだけど。
今は、アスランの瞳のあお色が、何よりも一番なんだと。
そうしたら………どんな顔をするだろう。


────笑ってくれると、いいな。