哀しい夢も、消せない痛みも、いつかは空に溶けて君に優しく降るから。

今はただ、安らかな眠りを。

そして、かつての今日という日に世界中に溢れていた愛を、君に。










蒼天への鎮魂歌











「まぁ、アスラン」


最初に彼を出迎えたのはラクスだった。
料理でもしていたのか、彼女によく似合う淡い桜色のエプロンを身に付けている。


「お久しぶりです」


小さく会釈を返すと、ラクスは微かな驚きの表情からふわりと笑顔に変わった。


「ええ。最後に会ってからもうひと月半くらい経つでしょうか」
「正確には一ヶ月と一週間ぶりになります。これでも当初思ったよりも随分早く切り上げられました」
「それは宜しかったですわね。さぁ、いつまでもここでお喋りしているのも何ですし、お入りになって下さいな」
「あ、はい………では、お邪魔します」


すると、ラクスがくすくすと軽やかな笑い声を零した。
不思議に思って顔を向けると、ラクスは口元に手を当てておかしそうに目を細めていた。


「あらまぁ、いつまで経ってもその癖が直りませんのね」
「え………?」
「ここは貴方にとっての家でもあるのですから、いつまでもそのような他人行儀な言葉はおかしいのではないですか?」


室内に足を踏み入れると、それまできゃあきゃあと賑やかな追いかけっこを繰り広げていた子供達がアスランに気付いて駆け寄ってくる。
「アスランだぁ!」と満面の笑みの子供達に足や腰にしがみつかれて、そのあまりの元気の良さに一瞬怯んだものの、苦笑を零しながら自分よりも随分低い位置にあるいくつもの頭を端から撫でていった。


「……そういえば、毎回こいつらにも注意されてた気がします。『帰ってきたら"ただいま"でしょ!』ってね」
「ふふ……それなのにちっとも直らないんですもの。それもこれも、アスランの頭が固いせいでしょうか?」


そんな事をさらりと微笑みながら言われてしまえば、もう苦笑するしかないだろう。

しがみつかれたままのアスランを見兼ねたラクスに優しく諭されひとりふたりとまた遊びに戻って行く子供達の背を見送りながら、アスランは少し目を細めた。
ここはいつも賑やかだ。
そして、温かくて穏やかな空気に満ちあふれている。
この場所を訪れる度─────いや、この場所へ『帰って』くる度に、アスランはいつも心からホッとしている自分がいる事を知っている。


「浜辺にいらっしゃいますわよ」
「え………?」
「貴方の探し人のことですわ。わたくしと話をしていても、ずっと視線がうろうろしていましたから」


虚をつかれて、一瞬ぐっと詰まる。
微かに赤く染まったアスランの頬を見て、ラクスは堪えきれずにくすくすと笑みを零した。
目の前で心底おかしそうに笑い続けられてアスランはやや憮然とする。
でもそれ以上に、自分はそんなに顔に出ているのかという羞恥の方が先に出て、つ…と視線を外した。


「………そんなに分かりやすいですか?」


その問いにラクスは、はいともいいえとも言わなかった。
ただふわりと聖母のように微笑んだだけで。










浜辺だけあって、この辺りは常に風が強い。
潮をたっぷりと含んだ海風が、アスランの髪やシャツの襟や裾をはたはたと忙しなくはためかせる。
風に攫われ頬や目許へとかかる髪を煩わしげに抑えながら足を進めた。

視線の先─────波打ち際にいた人影が、さくっさくっと砂を踏む音に気付いて、ゆっくりと振り向く。

アスランの姿を認めて一瞬瞠目した菫色の双眸。
見つめ合ったまま暫くすると、それがゆるりと細まった。

それに応えるように、アスランも少し目尻を下げる。
ようやく相手に手の届く場所まで距離を詰めたところで、立ち止まった。
目の前の彼は、大分伸びた栗色の前髪を風に遊ばせながら、彼独特の穏やかでどこか儚げな風情で小さく笑んだ。


「おかえり」


柔らかく甘やかな声が耳朶をくすぐる。

ああ、とアスランは思わず自らの胸元を押さえた。
凝り固まり張りつめた心が、ゆっくりゆっくりと解けてゆくのを感じる。

どうして彼の瞳は、声は、こんなにも自分を揺り動かすのだろう。
強く強く抱きしめたい。
この身に絡み付く何もかもを振りほどいてでもと、そう思わせる程に。
ああ、でも………今の自分にはそれをする勇気すらなくて。


「………ただいま、キラ」


ようやく絞り出したようなみっともなく掠れた声に、彼は気付いてしまっただろうか。
少しの不安を持て余しながら、それでも少しでも目を離したくなくて、その大きな瞳を見つめていた。

キラは、何も言わずにただ小さく微笑んでいた。

その笑みは、何故か先程見たラクスの頬笑みにひどく似ている気がして─────。
少しだけ………そう、ほんの少しだけ、寂しさに似た何かが胸をちくりと刺した。










「今日はひとり……?カガリは?」
「まだ重役との会議が残っていて今日は来れなかったんだ。明日か遅くても明後日には顔を出すって言っていた。俺が残っていてもすることないから、先に行っていろって追い払われたよ」
「そう……今回はどんな仕事だったの?」
「ああ、オーブ各地の復興状況を確認する為の現地視察だ。オーブ国内だけとはいえ何ヶ所も行き来しての視察、その上会議や会談も合間に入るものだから思っていたよりも長引いたよ。カガリは「体力には自信があるから大丈夫だ」って行く前は言ってたけど、でも今回のは大分こたえたみたいだ」


ようやく自分の屋敷に戻れたとぐったりしていた姿を思い出し、アスランはふ…と苦笑して、先程ラクスが入れてくれた紅茶をひと口啜った。

肌寒くなってきた浜辺から引き上げてリビングに落ち着いたふたりは、暫くそんな話を続けていた。
オーブ代表となったカガリと、その護衛兼補佐役として常に傍に控えるアスラン─────いや、アレックス・ディノと言った方が正しいのかもしれない。
実際、公の場に付き従う時の彼はその名を使っていたし、この国で暮らす上ではアスラン・ザラという名は障害になることはあっても助けになることはないのだから。


『血のバレンタインの悲劇』から始まったプラントと地球間の一連の戦争が一応の終戦の形を迎えたとはいっても、外の世界はまだあまりにも不安定で殺伐としていた。
一度は戦争という最悪な形にまで発展したプラントと地球の溝……コーディネイターとナチュラルの溝は一両日で埋まるものではない。
いつまたその溝が戦争の火種を生み出さないとも限らない。

だからこそアスランは、そうならない為にとオーブ代表として世界中を駆けずり回るカガリの護衛兼補佐役として彼女の傍に付いて動く事を決めた。
戦争で亡くした戦友達を、最期の最期まで分かり合えなかった父を、そして母の悲劇をもう二度と繰り返さない為に。
例え、その決意の為に名を変え顔を隠し、結果祖国を捨てることになろうとも………。

きっと無意識にだろう……ぐっと握り込まれたアスランの拳を見て、キラは微かに辛そうな顔をした。
顔を俯かせていたアスランがそれに気付くことはなかったけれど。


「……ちょっと疲れてる?」
「え?」
「顔色、あんまり良くないから」
「え…ああ………少しだけな。ここの所ちょっと忙しかったから」


気遣わし気に顔を覗き込んでくるキラを安心させるようにアスランは微笑む。
キラは「そう……」とだけ小さく呟くと、手に持ったカップに視線を落としたきり押し黙ってしまう。
不意に訪れた静寂。
いつでも顔を合わせれば話が尽きることがなかった幼い頃とは違い、最近は沈黙が続くことは珍しくない。

昔に慣れ親しんだ太陽のような明るさは鳴りを潜め、まるで夜空に浮かぶ月のような物静かさと儚さを身に纏うようになったキラ。
あの辛く厳しい戦争がそうさせたのだと思えば、アスランの心はいつでも痛んだ。
けれども、この沈黙自体が痛いと思ったことはない。
キラと共に過ごす静寂はいつもどこか優しくて─────忙しく駆け回る日々や、中々思うようにいかない協定で荒みそうになる心が癒され休まるから……。

カチャンとカップをソーサーに戻す音が響く。
何気なく音の発生源を目で追えば、キラも丁度アスランの方を向いていたらしく、視線が絡む。


「こっちおいでよ、アスラン」


彼はさっきまでカップを持っていた手でポンポンと自分の隣を叩いた。
ここに座れということらしい。
なんだろうと首を傾げながらもアスランはスツールを立つ。
ソファに腰掛けるキラの元まで行ってそのすぐ隣に腰掛ければ、待ってましたとばかりに肩を掴まれて引き倒された。


「ちょ……っ!キ、キラ?!」
「いいから大人しくして」
「って、大人しくって言われても……」


唐突に頭を腿の辺りにぐいっと押し付けられてアスランは目を白黒させる。
所謂ところの"膝枕"のような形。
アスランは、視線の先にある天井とキラの顔をどこか不思議な思いで見つめていた。


「何日寝てないの?」
「………1日だけだよ」
「じゃあ、ここ1週間の平均睡眠時間は?」
「……………2時間弱…くらい」
「やっぱり。ろくに寝てないんじゃないかなとは思ってたけど……ちょっと頑張り過ぎだよ」
「なんで……キラにはすぐ分かっちゃうのかな……」


困ったように力なく笑うアスランに、キラもそっと控えめな頬笑みを浮かべた。
分からないわけないのに、と。

きっと立場が逆なら、アスランもキラの状態に気付いていただろう。
隠すのが上手いとか下手とか、そういうものとは違うのだ。
ただ、その人だから、分かる。
空気を吸い込むことのように自然で遠慮のない、深い絆─────。


「ここのところずっと動き回ってて疲れただろ?そうでなくても……君もカガリも、大変な仕事をしてるんだ。今ここにいる時くらい多少ずるけたって、誰も文句言わないよ……?」


柔らかな声が耳朶にふわりと降り注ぐ。

キラに許されて、アスランは少し躊躇しながらもその膝に甘えた。
優しい匂いがする。
キラの発する、全てを慈しみ包み込むような穏やかで優しい匂い。
どうしてだろう……まるで自分の全部を許されているかのような気がするのは。

頭を撫でる細い指先が、まるで母のようだと思った。

不意に脳裏に蘇る今は亡きひとの笑顔。
失われてしまった幸福だった頃の記憶の欠片に─────しくりと胸が痛んだ。


「キラ………」
「大丈夫。……分かってるから、全部」
「……………」
「アスランが今何に哀しんで、何を悼んでいるのか。何を願っているのか。ちゃんと分かってるから。だから……いいんだよ」


ここには、僕しかいないから─────。

膝枕をしながら、キラは慈しむようにミッドナイト・ブルーの髪を優しく梳く。
時折目許や頬にも指を滑らせて、くすぐるようにして愛おしそうに撫でていった。


「いつもじゃこんなに甘やかしてくれないのに」
「今日だから……特別だよ?」


キラの声はどこまでも穏やかだった。
優しすぎて、泣きそうになる。


「…………ありがとう」


泣き笑いに似た顔で、アスランが呟いた。


(…………母上…)










「あらまぁ。妬けてしまいますわね」


キラの膝で安らかに寝入るアスランの姿に、様子を見に来たラクスは微笑んだ。
その言葉がいったいどちらに向けられてのものなのかは謎である。


「わたくし、彼の寝ている姿を見たのは初めてです」
「あれ、そうだった……?」
「ええ。こうして見ると、寝ている時のアスランは随分幼く見えますのね」
「うん……そうだね」
「キラの寝姿は幾度かお目にかかったことがありますが、その時のキラもとても可愛らしかったですわ」
「う……ん?それって…喜んでいいのかな……?」


困惑気味のキラにくすっとおかしそうに笑うと、ラクスは隣の部屋から愛用している膝掛けを持って来て「どうぞ」と差し出した。
この時期は昼時でも寒いですから……と手渡された膝掛けを受け取ると、キラはそれを広げてすぅすぅと寝息を立てるアスランの上に静かに掛けた。
物が物なので体全体を覆うことはできないけれど、それでもあるのとないのでは大分変わるだろう。

一連の動きで振動が伝わったせいか、それまで規則正しく仰向けの状態のまま微動だにしなかったアスランが身じろぎをした。
ん……と小さく息が漏れる。
起こしてしまっただろうかとキラは内心ではらはらしたけれど、その懸念とは裏腹に、彼は横に寝返りをうっただけで再びすぅすぅと寝息を立て始めた。

キラはその様子に小さく微笑むと、先程もそうしていたようにアスランの髪を撫でた。
よしよしと幾度もそうしていると、まるで甘えるかのようにアスランの頬が膝に擦り付けられる。


「まぁ。アスランたら甘えん坊さんなんですのね。キラもいつもなら恥ずかしがりますのに…よろしいのですか?」
「………うん、今日は良いんだ。今日だけは、特別」


面白そうにふたりを眺めているラクスにキラは少しはにかみながら答える。
そうしてアスランの顔を暫く見下ろした後──────寂しげにぽつりと呟いた。


「今日は、アスランにとって哀しい日だから………」


キラの瞳がゆらりと微かな痛みをたたえる。
言葉の意味を知るラクスも、少しだけ辛そうにそっと目を伏せた。


「………ラクス。歌を、歌ってくれないかな………?」
「歌、ですか?それはもちろん構いませんけれど」
「本当なら、アスランも自分で直接行って…お墓に花を備えたいと思ってるはずけど、今は無理だから……」
「それは、アスランのお母様のことですわね……」
「うん………きっと、ラクスの歌なら…ここからでもレノアさんの所にまで届くような気がするから」
「………畏まりましたわ。喜んでお引き受けいたします。けれど、アスランを起こしてしまうかもしれませんよ?」
「大丈夫。アスランて、歌を聞いてて眠ることはあっても、起きることはないんだよ。昔からね」


そう言って悪戯っぽく笑うキラにラクスもあらあらと愉快そうに口元を覆う。
姿勢を正した彼女は、キラ達に向き直りスカートの裾を軽く持ち上げてまるで貴婦人のように優雅に会釈をした。


「それでは僭越ながら……」


そして暫しの静寂の後、澄み切った歌声が辺りに響き渡った。

たおやかな少女が玲瓏たるミューズへと変わる時。
その口から紡ぎ出される歌声は世界を包み込む。
美しい旋律が生まれては消え、消えては生まれていった。

空気に溶けゆく歌声にキラは瞳を伏せて聴き入っていた。
かつての今日この日に消えた、数多の命へと捧げるレクイエム。
歌姫が紡ぐ哀しくも美しい旋律に乗せて、失われた命へと想いを馳せた。
ただひたすらに祈りを込めて。
どうかどうか安らかにと……。
そして、かつての今日この日に大切な人を失い、この世界に残された人達の心が少しでも癒されますようにと。





キラが知るあの人は、とても優しかった。

研究者としての仕事にかかりきりだった彼女とはそんなに会う機会があったわけではないけれど、会えばいつでも優しく微笑んでくれた、
でも、同時にとても厳しい人でもあったと思う。
一度か二度しかなかったこととはいえ、幼馴染みとよく似た奇麗な顔で怒られると、他の誰かに怒られるよりもずっとずっと堪えて………。

そういえば、アスランはよく怒られていたな……と幼かった日々を懐かしく思う。
怒られていたというよりは、常に小言を言われていたという感じだろうか。
品行方正でいつもしっかりしていて、誰かに文句を言われる所なんて殆ど見たことのない出来過ぎの幼馴染みだったけれど、母親たる彼女だけは違っていた。
『面白みのない子ねぇ…』と、いつも息子をつついては、『ほっといて下さい』とむくれさせていた気がする。

そうやってからかわれるものだからアスランはいつもぶつぶつ言っていたけれど、キラはちゃんと知っていた。
彼女がどんなに息子を思っていたか。
だってキラには、彼女と交わした約束があるから。
キラがまだ両手の指に収まるくらいの年だった頃に交わした、大切な約束が。


『キラ君、あの子をよろしくね。ああ見えて結構寂しがりやだから……これからも傍にいてあげてくれる?いじっぱりだから私にも中々弱い所を見せない子だけど、キラ君の前だけでは違うみたいだから…………これからもどうか、あの子の居場所になってあげてほしいの』


鮮明に思い出せるその言葉。
あの頃のキラは、そんなに深く考えずにうんと頷いた。
だって、アスランの傍に居ることは、当時のキラにとってはとても当たり前のことだったから。
離れるなんて、考えもしないことだったから。
約束するね、と小指を差し出して言った自分に、彼女は本当に嬉しそうに笑って小指を絡めた─────。

それは、もう二度と見る事のできない優しい微笑み。
今はもう過ぎ去った、優しい思い出………。





閉じていた瞳をゆっくりと開いて、キラは自分の膝で眠るひとを見つめた。
先程まで脳裏に浮かんでは消えた彼女ととてもよく似た面差しを持つひと。
彼女が愛し慈しんだ、ただひとりの息子。
そして、キラが自分の唯一と定めた、かけがえのない……─────。


『これからも傍にいてあげてくれる?』


─────はい、レノアおばさん……約束します。


あの時にはなかった痛みと切なさを。
そして何よりも、抱えきれないほどの強い決意を胸に抱いて、遠い空の向こうに眠る彼女へと誓った。
小指を絡めることはもうできないけれど、きっと想いは届くと信じて。


その時、キラはアスランの目許に光るものを見た気がした。
もしかしたら気のせいだったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
キラはそれを確かめようとはしなかった。
ただ、自分の元で眠る彼の髪を撫でて─────その心が、見る夢が安らかであることを祈っていた。


ラクスの歌が朗々と響く。
キラは、再びそっと瞳を閉じた。

もし彼が夢の中にひとり居るのなら、その傍らに寄り添えるようにと…………。










「………私の歌も、きっと今日のアスランの心を慰めることはできませんわ。それができるのは、この世でただおひとりだけ……」


キラが眠りに落ちるのを見届けた後、歌を歌い終えたラクスはそっとふたりの元へと歩みを進める。
見下ろしたふたつの寝顔は、とても穏やかだった。
今日はずっとどこか焦燥を隠せずにいたアスランだったけれど、今はその顔に翳りは認められない。


「アスランの瞳は、ずっと何かを探しているようでした。この家に来てから、ずっと。わたくしは、それがキラだと思いました。けれど………」


そこまで呟いて、ラクスは小さく首を振った。


「いえ、キラで間違いはないのです。きっとアスランは、キラと……そしてキラの記憶の中に在るレノア様の面影を探しておられたのですね。お父上であるパトリック様亡き後、レノア様の記憶を共有できるのはキラだけですもの………」


キラはきっと、ひと目でそれに気付いたに違いない。
誰よりもアスランの近くにいる人だから。
そして誰よりも、アスランのことを想っている人だから。

ソファの背もたれに半身を預けて眠るキラの頬に、ラクスは細い指を伸ばした。
少女のように長い睫がそこに影を落としている。
指先を微かに頬に触れさせ、少し躊躇う素振りを見せた後、そのままゆっくりと手を引き戻す。
そっと伏せた瞳には、微かに切なさが滲んでいた。


「………少しだけ羨んでしまう私を、どうか許して下さい」


互いが互いを誰よりも理解し合い、強く深い絆で結ばれているキラとアスラン。
それが時に痛みを伴うものなのだと、ふたりを間近で見て来たラクスはよく知っている。
温かく優しい、安らげるだけの関係ではいられない。
誰よりも近いからこそ、時には哀しいほどに傷付け合ってしまうこともある。
けれども、それを分かっていながら………そんな関係を羨ましく思う心は常にどこかにあって─────。

こんなことを、他ならぬ今日この日に抱くのはとてもひどいことのように思えて、ラクスは心の中で懺悔した。

彼らが亡くした大切な人の面影を共に偲ぶことが出来ない自分が切ない。
どうして自分は、彼らともっと早くに出会っていなかったのだろう。
そうしたら、今よりもっと近い場所で支えてあげることが出来たかもしれないのに………。

いくら考えても詮無いことだと分かっている。
それでも……─────。


希求する自らの心を押しとどめ、ラクスは自分を落ち着けるように小さく嘆息した。
今更どうしようもないことをずるずると考えても仕方がない。
高望みだと知っているのだから。

キラが自分に歌を歌って欲しいと願ってくれたことだけでも、本当は十分すぎるくらいに嬉しいことだった。
いつものように、全てを自分の中で昇華しきってしまわずにいてくれた。
自分にも出来ることがしたいと、心の中で怯えながら差し伸べていた手を取ってくれたような気がした。

だから、今度も自分が今できることをしようと思う。
幸いなことに、ひとつだけすぐに実行できる思い付きがあった。
つい先日キラが話してくれた、遠い昔の特別な習慣。
かつての今日という日に込められたという、沢山の想いたち。
話を聞いた時、とても素敵だと思った。


ラクスは思い立ったら吉日とばかりに腰を上げた。
カリダならば力になってくれるだろう。
子供達もきっと喜んで手伝ってくれるに違いない。

部屋を出る際、入り口の所でふと振り返る。
視線の先には、寄り添ってソファに身を沈めているラクスの大切な人たち。
安らかな寝顔を見せるキラとアスランはいつもよりずっと幼く少年めいて見えて、まるでラクスの知らない過去の姿を切り取ったようだった。

暫くそれを微笑ましそうに見守った後、「素敵な夢を…」と囁いてラクスは部屋を後にした。





跡に残されたのは、ふたつの人影。

二月にしては温かい気候にも助けられ、その深い眠りを妨げるものはない。

その後時折子供達が入り口から様子を覗いたりしていたけれど、中に入ることもなく、顔を見合わせてしぃ〜っと人さし指を立て合っては笑いながら戻って行った。
起こしたらいけませんよとラクスによく言い含められていたせいだろう。


周囲の喧騒から隔たれた、ふたりの為だけの世界。
その中で、ふたりはどんな夢を見ていたのだろうか。
もしかしたら、夢の中でもこうして寄り添い合っていられたのかもしれない。

何故なら、眠りに落ちているはずのキラとアスランの手は、いつの間にかまるで示し合わせたかのように重なり合っていたのだから─────。


その後ふたりは、夕方近くに主人を探して舞い降りてきたトリィに起こされるまで眠り続けていた。










「……なんか、さっきから家中甘い匂いしないか?」


眠りから覚めたアスランはキラに甘えた自分の有り様を思い出して余程恥ずかしかったのか、照れ隠しのように露骨にキラから視線を外して呟いた。
頬に少しだけ朱が散っているように見えるのは、きっと夕焼けだけのせいではないだろう。


「あ、うん。ちょっとね、ラクスと子供達が張り切ってるんだと思う」
「……………?」
「おいおい分かるよ」


周囲に漂う独特な匂いと、遠くから時折聞こえて来る子供達の楽しそうな声とで大体の事情を察したキラが、穏やかに微笑みながら答えた。
そういえばこの間あの話をラクスにしたっけと思い返しながら。

アスランは相変わらず不思議そうな顔をしていたけれど、とりあえずはそれで納得したらしい。
寝ている間に固まってしまった身体をほぐしている彼を何気なく見ながら、キラは思う。
いつの日か、彼が引き裂かれるような痛みを伴わずに愛する母親を偲べる時が来ればいいと。

そしていつの日か……再び今日という日が、怒りや痛みよりも強い愛という優しさに包まれる日になればいいな、と─────。



何故ならかつての今日は、世界中に愛の溢れる日だったのだから。













++END++





++後書き++

ええと…一ヶ月遅れのバレンタイン話です(…ι)
リハビリ的な意味を込めて少しずつ少しずつつらつらと書き連ねていたものなのですが、いつの間にか最初に考えていたものから軌道変化してラクスが出ばってます。自分でも意外だったのですがラクスは今回初書きでした。
SEEDでバレンタインというとやっぱり『血のバレンタイン』が真っ先に頭に浮かびますし、切っても切り離せないように思えましたので、今回はこんな薄暗い感じのものに……。全然無視してパラレルなハッピーバレンタインというのも考えたのですが、どうにも書けそうな気がしなかったのでこういう形に収まりました。
アスラン、弱らせすぎだったでしょうか……?でも私にしては珍しくキラがアスランをかなり甘やかしてあげていたのでそれで許してください(笑)
written by  深織

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