恋歌未満 「…ん…………」 しんとした室内に、ごそごそと布の擦れる音がする。 寝苦しいのか、それまで頻繁に寝返りを繰り返していたキラは、暫くしてうっすらと瞳を開いた。 そのままのそのそと身体を起こすと、ふわっと欠伸をする。 小さな手で目をこすりながらも辺りを見回すと、ベッドのすぐ傍らのデジタル時計が目に入った。 AM 11:50 キラはぱちくりと目を瞬かせる。 もう一度ごしごしと目をこすってから食い入る様に時計を見ても、表示は変わらない。 ……当然だが。 「っああああああああ!!!」 がばっと自分の上のブランケットをはぎ取りながら、キラは叫んだ。 もう、眠気なんて今の一瞬でふっ飛んだ。 只今の時間、11時50分。 昨日の記憶が正しければ、今日はアスランと10時に待ち合わせをしていたはず。 なんたることだろう。 もうこの時点で1時間50分も遅刻している事になるわけで───。 まずいまずいものすごくまずい………!! あまりの事態に、キラは思わず半泣きになった。 いくら自分にちょっと遅刻癖があるといっても、いくらなんでもこれは酷すぎる。 「どうしようどうしよう………っ。早く着替えて公園に………ってその前に電話っ!!」 眉毛を八の字に歪めて、キラは慌ただしくベッドから下りた。 これだけ時間が経ってしまえば、いかにアスランといえどももう待ってはいないだろう。 それならば、まずアスランの自宅へと電話しないと……。 キラが部屋を出るためにドアに手を伸ばそうとしたその時、不意にそれは開いた。 そしてドアの向こう側から、思いもよらない人物が顔を覗かせる。 「ア、アスランッ?!」 すぐ目の前にキラがいたことに少し目を見開いた後、アスランはふっと微笑んだ。 「ああ、どうもバタバタ音がすると思ったら、やっぱり起きたのか」 そう、そこにいたのは、間違いなく公園で待ち合わせをしたいたはずの彼だった。 その彼が、何故か自分の家にいて今自分の前に立っている。 「アスラン、どうして……?」 そう、どうして彼が此処に居るのか。 「いつまで待っても来ないから、多分寝てるんだろうなぁと思ってさ。当たりだったろう?」 悪戯っぽくそう言われて、キラはうっと詰まる。 「………ごめん」 「まぁ、いいけどね。もう慣れたし」 「………どのくらい待ってた?」 「公園では40分くらいかな」 何気なく言われた言葉に、キラは驚く。 もちろん40分も待たせた事に罪悪感を感じたけれど、それ以上にその前の言葉が引っかかる。 公園では、ということは─────。 「えっ?!そんな前からうちに居たならなんで起こしてくれなかったの……?!」 「そうしようと思ったけど、あんまりにも気持ち良さそうに寝てたから気が引けた」 肩をすくめて苦笑するアスランに、キラはうぅっと唸ってますます俯いてしまう。 今更、寝顔を見られて恥ずかしいなんて思わないけれど、なんとなく気まずい。 涎垂らしてなかったかなぁ……なんて要らぬ不安に襲われる始末だし。 「キーラぁ、どうせ昨日夜更かししたんだろう?」 「う…………っ。で、でも来てたならすぐ起こしてくれればよかったのにっ」 「キラは睡眠時間足りてないと足下が危なくなるからなぁ。そんな状態でなんて連れ回せないよ」 だろ?と図星をつかれて悪戯っぽく責められては、何も言い返せず……───。 「むー…………」 「そんな顔しないの。ほら、眠気覚ましにあったかい紅茶でもどう?」 むくれるキラの頬をつんとつつくと、アスランは苦笑を浮かべながらリビングへと誘いをかけた。 連れ立って向かったテーブルの上には、ティーポットとふたつのティーカップが並んでいる。 ポットには既に茶葉と湯が入っているらしく、紅茶独特の匂いが部屋に広がっていた。 しかもその隣には、先日キラの母親が作って余っていたハーブクッキーが品良くお皿に盛られている。 それを見た時キラの頭に『なんか……僕の方がお客さんぽい?』という言葉がちらりと横切った。 勝手知ったるなんとやらで、アスランはてきぱきとミルクやティースプーンを用意していく。 その様子を頬杖をつきながら眺めていたキラは、いつもならこの時間はリビングに居るはずの母親の姿が見えないことに気付いた。 「そういえば、母さんは?」 「僕が来た時にちょうど入れ替わりで出かけて行ったよ。お昼過ぎには帰ってくるって伝えてってさ」 アスランは紅茶を注ぐ手を止めないままそう答えると、はいどうぞと片方のティーカップをキラの前に置いた。 ミルクと砂糖をたっぷり入れた甘い紅茶を啜りながらキラはふぅんと頷く。 ちなみにアスランはストレートで飲んでいる。 アスランはもう2年も前から紅茶は大抵砂糖無しのストレートだった。 ───なんとも子供らしくない子供だったわけだが、そこはそこ。 「それ、新しい本?」 そう言ってキラが指し示したのは、アスランの手元にある青い装丁のそれ。 此処でキラの起床を待っている間にでも読んでいたのだろう。 奇麗な青色と見覚えのない表紙の絵に、なんとなく興味を引かれた。 キラはあまり頻繁に読書はしないが、アスランは時間の空きがあれば好んでしている。 「うん、昨日図書館で借りたんだ。キラも前に見たがっていた地球の花の本だよ」 「えっ?それって、この間探したけど貸し出されちゃってたアレ?!」 途端に瞳を輝かせるキラに、アスランはくすっと微笑んで頷いた。 「来る前に寄ってみたら返却されてたから借りて来たんだ」 「見せて見せてっ!ねぇ〜早くっ」 ちっちゃな子供か、おまえは。 待ちきれないとばかりに両手を差し出して、しかも足までバタつかせておねだりをしてくるその姿に、アスランはついつい微苦笑を漏らしてしまう。 「はいはい、今見せるからそんなにはしゃがないの。あんまり暴れるとカップを───」 倒しちゃうよ? アスランがそう言い終わるか終わらないかのタイミングで。 ガッチャン。 「うわ………っ!!」 倒れたティーカップから零れた液体が、ミルクホワイトのテーブルに小さな池をつくる。 テーブルと同化しそうな程に白みの強い、アスラン特製お子さま味覚なキラ専用ミルクティーでできている、甘い甘い池を。 キラは、自分の肘ではり倒してしまったモノとその結果を見て、しまったとばかりに舌を出した。 「やっちゃった」 可愛らしく小首を傾げながら呟いてへらっと笑ってみたけれど───。 「………………キラ」 ビクッ。 押し殺したような冷たい声に、へらりと笑ったままの表情で固まる。 周囲の温度が軽く3度は一気に下がったような……。 まだお昼だというのに、なぜこんなに背筋が薄ら寒いのか。 理由はといえば、目の前の人物から漂ってくる冷気のような冷たぁいオーラが原因に他ならないのだけど。 おそるおそる視線を上げて数ヶ月年下の幼馴染みを窺い見れば。 笑みの形を象りつつも、微妙に引きつった口元だけがやけにはっきり見えた。 「ごごごごめん、アスラン」 青ざめながら手を合わせるキラに返されたのは、腹の底からの大きな大きな溜息ひとつ。 「………言ったそばからコレだし」 畳まれていたクロスでテーブルを拭きながら、心底呆れと言わんばかりに肩をすくめられて、キラはますます小さくなってしまう。 「そ、そろそろ出かけよっか?紅茶も飲み終わったし……」 なんとかこのイヤ〜な雰囲気を払拭したくて、汚れたクロスを洗うアスランの背中にそう声をかけた。 そもそも今日の本来の目的は映画だったわけで。 まあ、予定は多少狂ったけれど……───キラの寝坊のせいで。 ちらりと肩ごしに振り向いたアスランの表情はいつもどおりで、もう怒ってないのかなと内心ホッとした。 ………が。 「映画ならもう終わってるよ。次の回は確か夕方過ぎまでないけど?」 夕飯までには帰って来なくちゃいけないじゃなかったっけ? とさらりと言われて、キラは再び固まった。 フォローをするつもりが、思いっきり墓穴を掘っただけのような………。 青い顔で固まってしまったキラを、アスランは呆れ半分笑い半分で見つめる。 ギギギと錆び付いたロボットみたいにぎこちない動きで振り返ったキラは、まるで泣き出しそうな顔で。 「ごめん、せっかくの約束台無しになっちゃって……。何でもするから、お願い許して!!」 必死の嘆願に、アスランの眉がぴくりと動く。 それは、別にキラの必死さに思わず心動かされたわけではなく…………。 というか、毎回毎回の事なのだからこんなことでいちいち感動なんてしていられるわけがない。 問題はソコではなくて─────。 「”何でもする”………?」 そう、ソコ。 剣呑な雰囲気を立ち上らせるアスランに全く気付かず、キラはこくこくとものすごい勢いで首を振った。 今回自分がやらかした大ポカを許してもらうことに意識が全部いっているらしい。 「うん、そう!アスランの言うことなんでも聞くからっ!」 両手を合わせて拝むように懇願してくるその姿。 アスランは暫くそれをきつい眼差しで見遣ったあと、ふっと全身の力を抜くと、深くふかぁく溜息をついた。 「キラ。そういうことを考え無しに言うものじゃない」 「へ?」 「だからその…………何でもする、だなんてそんな簡単に言っちゃだめだよ」 「え、なんで?」 「なんでって…………」 ほんのりと顔を赤く染めながら、それはその……と口ごもる。 そんな珍しいアスランの姿に、キラは訳が分からずきょとんとしたまま。 だって危ないじゃないか、だなんてバカ正直に言えるわけがない。 『何が危ないの?』だなんて問い返された日には、さらに説明に窮することになるだろうし。 ……とそこまで考えた所で、はたと思う。 「まさかキラ………誰彼構わずそう言ってるわけじゃないだろうな………?」 「へ?何が?」 「だから……っ!何かまずいことやった時、誰にでもそうやって『何でもするから〜』って言って頼みごとしてるんじゃないだろうなって言ってるんだ」 だとしたらかなり面白くない。 というより、腹立たしい。 キラの『お願い』の威力は何よりも自分が一番認識している。 それがどんなに身勝手で我が侭なものでも、思わず叶えてやりたくなってしまう不思議な力があるのだ。 つつけば零れ落ちてしまいそうな程に潤んだ瞳での懇願と。 しょうがないなぁと呆れつつも頷いてやったあと、途端に花開く愛らしい笑顔。 それを見たさに、何度固い決意とやらを翻意しただろうか。 それを自分以外の人物に、しかも『最高級のおまけ付き』で見せているのだとしたら─────。 (なんか…………ムカツク) 日頃は身体の奥深くに眠らせている、所謂"独占欲"と呼ばれる類いの感情がふつふつと表層に沸き上がってくる。 …………でも。 「え〜〜〜〜?誰にでもなんてしないよ、そんなの。だって、アスランじゃないんでしょ?」 あっけらかんと、そう言われて。 「アスランじゃない人にそんなこと言えるわけないじゃん」 「そ……そう」 「うん、そうなの」 当然でしょうとばかりに大きく頷くその姿に、完全に毒気を抜かれた。 何気なく口にしたその言葉に、深い意味なんてきっとないだろうけれど。 それがどれほど自分を喜ばせているかなんて、欠片も気付いていないんでしょう? 自分だけだと言われて、心底ほっとした気持ちと、どこかくすぐったい気持ちを抱いて。 嬉しい、と素直に思った。 ああ、自分はまだこの子の『特別』でいられているんだなと、信じられるから。 『いつまで………?』 そう思うことは少なくないけれど、幾ら自問しても決して得られない答えを前に足掻くのは、もうやめた。 決めるのは自分じゃない。 キラなのだから。 『ずっと一番近くにいて』 アスランは心の奥底から溢れそうになる言葉をそっと元の場所に仕舞い込んだ。 「アスラン……?どうしたの黙り込んじゃって」 「あ……いや、なんでもないよ。じゃあ、せっかくキラがなんでも言うこと聞いてくれるっていうし………何にしようかなぁ」 「あぅ………………あ、あんまり難しいこととかにしないでね」 「ん〜どうしようかな?」 「アスラァ〜〜ン」 情けない顔でひしっとしがみついてくるキラに、アスランは声を立てて笑った。 自分がもうとっくに許していることなんて、気付きもしないらしい。 確かに公園で待っている時は少しイライラもしていたけれど、こうしてキラの家までやって来た時にはすっかりそれも落ちついてしまった。 こんな大遅刻も"いつものこと"で片付けられる許容範囲内でもあったし。 甘ったれでおっちょこちょいで手のかかる弟───キラは自分の方がお兄ちゃんだと言い張るけど───に振り回されることなんて、アスランにとっては既に日課だ。 悪戯っぽく笑っているアスランを前に、キラは『いったい何をさせられるのか』とハラハラしていた。 自分から言い出したこととはいえ、『何でもする』だなんて軽はずみにとんでもないことを言ってしまったのではと、ちょっと内心冷や汗をかいている。 ─────とはいえ。 実は、ホントのホントは、表に見える程心配はしていなかったりもするのだ。 アスランならきっと自分に無理難題をふっかけるようなことはしないと、どこかで分かっているから。 アスランが自分に甘すぎるくらい甘いことを、キラは無意識下の中で知っている。 キラはアスランに、それこそ両親以上の全幅の信頼を寄せている。 そしてアスランのことを一番知っているのは自分だし、自分のことを一番知っているのはアスランだという確信があった。 だからこそこんな風に、自分の全てを預けるようにして甘えることが出来るのだから。 そして、それは見事に適中することとなる。 「明日の放課後、用事が終わるまで待っててくれる?」 『何でもする』というキラに対してアスランが望んだのは、そんな小さなことだった。 ++END++ ++後書き++ 私の幼年アスキラだといつもの事だけど、今回も相変わらずアス×キラじゃなくてアス+キラな感じ。あ、でも今回はアスランがちょっとだけ自覚しかかってるかな。それでも、やっぱりまだまだだねレベルで子供特有の独占欲止まり。 そしてやはしというかアスランがキラに甘い甘い。でも、公式の方でもキラが我が侭で甘えたさんなのはアスランが甘やかしたせいなんじゃ………?とほぼ確信している今日この頃です。
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