1352 横浜港 IHI-MU横浜 DDH181ひゅうが進水式

1352 IHI横浜 観測記 平成19年8月23日 木曜 晴れ/曇り 14:00〜15:30

・DDH181 ひゅうが IHI横浜第三工場建造船渠より進水

今日は、IHI-MU横浜工場で、海上自衛隊の16DDHの進水式が行われるので出動。

平成14年8月8日、改むらさめ型(4600t)である「たかなみ」型護衛艦2241番艦の進水式以来だ。前回の「すずなみ」のときは総合火力演習と重なっていて見送っていて、今回も条件は同じなのだが、何しろ鳴り物入りの新型艦なので外すわけにも行かない。
実際、来場者数は4000名、報道陣も100名というからすごい。

西小山⇒武蔵小杉⇒菊名・急行⇒横浜⇒磯子⇒新杉田、時間があるので周辺の探索。
徒歩で13:05正門。そしてマリンクラブへ。13:30〜14:00が受付時間で、13:50?車で構内を通って13:58?式場へ。ここの建造ドックは、長さ320mの大型ドックで、開設当初は、超大型タンカーの建造を前提としていたものだ。従来は、前後からくまなく撮影するところなのだが、今回は撮影場所も実際の環境もかなり制約されているので、護衛艦2319番艦の写真を正面左右から写して待機位置へ。通常なら式台は艦首正面なのだが、今回は船渠が大型で特殊なため、東岸(右舷艦首)に式台が設けられていて、薬玉は艦首、シャンパンは左舷甲板に用意された。今回は、わが国初の全通甲板型護衛艦の進水と言う特殊性からか、報道も多く来ていた。
マストには既に多くの装備が搭載されていたが、FCS3はモックアップだったようだ。
15:30車で正門まで送っていただき解散。
16:00磯子の松屋で一服、磯子⇒有楽町にて撤収。

「DDH181ひゅうが」の進水式の様子は次の通り。
防衛省副大臣到着で式は始まり、15:00開式、国家斉唱、防衛省副大臣による命名、進水作業発令、陸上要員準備、艦上要員準備。支綱切断、15:06シャンパンが割れ、軍艦マーチ演奏裏に、船体はゆっくりタグにより引き出され、薬玉が割れ、花火、放鳩、祝賀汽笛により終了。今回は、花吹雪や花火が「いつもより多く」実施されていた。
通常はこの後船渠外の方へ曳かれていくのだが、今日は船渠中央で停止。工場内には艦首ソナーの部材と思しきブロックも置かれており、このまま船渠から出さずに排水して作業するのかもしれない。その場合、場外でお待ちの面々は待ちぼうけを食うことになる。結局、18:00頃までかかったらしい。

木村防衛副大臣、吉川海上幕僚長、横山装備本部長、IHI-MU今清水社長、IHI伊藤会長、その他来賓が参列。久間元防衛大臣の姿も見られたが、小池防衛大臣は外遊中で欠席。
ま、大臣の仕事は様々だが、パフォーマンスを優先し組織の内側に目を向けていない姿勢はどんなものだろうか。

滑走進水なら、『「ただいまより進水作業を行う」「進水準備」「腹受盤木取り外し始め」盤木を取り外す作業「進水作業始め」安全確認発令「安全ピンを外せ」』支綱切断、シャンパンが割れ、船体はゆっくり、そして物凄い轟音と共に加速され滑走、タグの祝賀汽笛の中、進水。』となるのだが、船渠進水は、船体は既に浮かんでおり、感激もかなり割り引かれる。

艦名だが、本艦は「ひゅうが」となった。
私は「あまぎ」「あかぎ」を使ってくるのではと思っていたのだが、地方の名前が新設され「ひゅうが」と相成った。

IHI石川島播磨重工業東京第一工場の歴史は、嘉永6年(1853)石川島造船所創業に始まる。この地は今の中央区佃で、豊洲の工場は、昭和14年(1939)に発足している。その後会社は、石川島重工と社名変更し、昭和35年(1960)に播磨造船所と合併、IHI石川島播磨重工業として今日に至っている。
昭和31年(1961)初代「あけぼの」がこの工場で建造される最初の護衛艦(当時 警備艦)で、奇しくも2代目「あけぼの」が、最後の艦となった。
建造船舶は、防衛庁向け艦艇26隻、海上保安庁巡視船8隻、気象庁9隻、国土交通省(運輸省)15隻、その他客船、貨物船など634隻の、総数692隻に上った。

IHI石川島播磨重工業横浜第三工場は、1964年、IHI石川島播磨重工業横浜第二工場として発足しており、東京第一工場の長い伝統、高い技術力、豊富な経験と人材を受け継ぎ、旧横浜工場の設備を一新し、2001年4月に新鋭工場として生まれ変わっている。
その後、住友重機械工業浦賀造船所と統合され、IHIより分社しIHI-MUとなっている。




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新規作成日:2007年8月27日/最終更新日:2007年8月27日