2456 東京周辺観測記 平成31年2月

2456w1 東京 第4回 武蔵新田 武者パレード
2456w1 東京 観測記 平成31年2月3日 日曜 晴れ 11:30〜15:00

今日は、第4回 武蔵新田 武者パレード へ。
武蔵新田は、むさししんでん、ではなく、むさしにった。新田義貞公の次男 新田義興公を祀った「新田神社」があり、それに由来している。
昔なら、東急目蒲線で一本だったのだが、目黒線として延伸、地下鉄相互乗り入れの結果、多摩川-蒲田間が、多摩川線となってしまったので乗り換え。

10:57西小山⇒11:06/11:14多摩川⇒11:20武蔵新田。
が。。。なんも気配がない。。。
とりあえず、11:27新田神社へ。
出店等で賑わっているが。。。
12:00集合、12:30整列、12:45-12:50出陣式、12:53出陣。13:15 頓兵地蔵、13:25 武蔵新田駅、13:50-14:05 氷川神社、14:18 十寄神社、14:30 新田神社 帰陣式、14:37 武者パレード 集合写真。
15:00作戦終了。
15:10松之屋でお食事。
15:52武蔵新田⇒15:59/16:00多摩川⇒16:10武蔵小山 にて撤収。

鎧兜の工作教室等で町おこしとしてやっているようだが、装束等の時代考証は、甘そう^^


今日もTDSのダッフィーくん、シェリー・メイちゃんのぬいぐるみを連れて行って、いっしょに撮影。今日のお洋服は、鎧武者、壺装束、白拍子。

今日のレンズのラインナップは、18-140。
D7100/18-140 (D90)
撮影枚数約615。 うちのダッフィーくんが165。


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●「第4回 武蔵新田 武者パレード」 [多摩川七福神縁日」 〜2019年2月3日(日)〜 開催!!
・2019年2月3日(日)は多摩川七福神『縁日』と武蔵新田商店会の「新春祭」が同時開催される他「第4回武蔵新田 武者パレード」も行われます。
*新田神社から出陣式の後、武蔵新田周辺をパレードします。(12時30分〜14時30分(予定) ※荒天中止)

武蔵新田武者パレード〜よみがえるむしゃしにった〜
南北朝時代に非業の死を遂げた武将新田義興公を讃えるために行われるパレードです。手作りの甲冑をまとった武者たちが、新田神社で出陣式をしたあと街中をパレードする様子は圧巻です。
パレードが行われる武蔵新田には、新田義興公を祀った「新田神社」をはじめ、彼にまつわる多くの伝説や史跡が遺っています。「新田神社」は、様々な災害を乗り越えて今も立っている樹齢700年のケヤキの木でもよく知られています。木に触れる人々は、健康と長寿の幸運を授かると信じられています。

新田神社
創祀 正平13年(1358年)
由緒
清和天皇より六代の八幡太郎義家の嫡孫源義重は上野国新田荘を領し、新田氏を称しました。新田義興公はその七世の裔(えい)新田義貞(よしさだ)公の第二子で、幼名を徳寿丸と申し、元服の折には後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を賜り、従五位左兵衛佐に任ぜられました。
義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元2年12月(1337年)北畠顕家(あきいえ)卿と共に鎌倉を攻略、翌3年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破されました。正平7年(1352年)には宗良(むねなが)親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫(しばら)く関八州に号令されました。
その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されましたが、武蔵(むさし)・上野(こうづけ)の豪族等に擁立されて再び東国に入られました。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが、常に失敗しました。そこで、国清は竹沢右京亮(うきょうのすけ)・江戸遠江守(とおとうみのかみ)らに命じて卑怯な計略をめぐらしました。
竹沢は公家の少将局という身分の高い女房を自分の養女にして、義興公に側女として献じて味方を装い、江戸遠江守は所領の橘樹郡稲毛荘を没収されたので、いっしょに鎌倉で戦おうと誘い出しました。
正平13年(1358年)10月10日、江戸氏の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出すと、舟が中流にさしかかる頃、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げました。
舟はだんだんと沈みかけ、ときの声とともに、川の両岸より江戸・竹沢らの伏兵に矢を射かけられ、あざむかれたことを察し、義興公は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込み、主従14名は、矢口の渡で壮烈なる最後を遂げられました。
そして、同年10月23日に悪計加担の渡し守は難船水死し、江戸遠江守は義興公の怨霊姿に驚き、落馬し、七日七晩溺れる真似をして狂い死にしました。
その後、足利基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ちたり、竹沢・畠山については、罪悪を訴える者があり、基氏に攻められ諸所流浪の末死にました。
この後も義興公の怨念が「光り物」となって、矢口付近に夜々現われ、往来の人々を悩ました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれて社祠が建てられ、『新田大明神』として広く崇め奉られました。これが新田神社の起こりです。(※大明神とは神様の中でも特に霊験あらたかな御神徳の高い神様をいいます。
例 稲荷大明神や神田明神などがあります)
江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であるということより、松平家から「新田大明神縁起絵巻物(都文化財)」や「新田神君碑(大田区文化財)」の奉納などもあり、武運長久の守り神として、武家信仰の神社として栄えました。その後、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の不思議な篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めました。また、源内は江戸一族の策謀を卑劣なやり方として、この新田神社の縁起をもとに浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」を脚色し、これが当時の江戸っ子の気質と合ったかのように、大変うけて爆発的な大当たりとなり、江戸庶民の新田詣が始まりました。現在でもこの「神霊矢口渡」の一部分が各地の歌舞伎場などで上演されています。
また新田神社が江戸日本橋から約4里(17km)のところにあり、「十万庵遊暦雑記」や「調布日記」などの紀行・案内書類に記されていますように、目黒不動・大鳥神社→池上本門寺→新田神社・十寄神社→古川薬師などへとぬける当時の絶好のハイキングコースのひとつでもありました。
その後、明治6年1月に府社に列し、同42年9月には特旨を以て、御祭神に従三位が追贈せられました。


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2456w2 横浜 篠原城址、キューピー第106回定時株主総会、小机城址
2456w2 東京 観測記 平成31年2月27日 水曜 晴れ 10:00〜14:30

今日は、キューピー第106回定時株主総会があるので、新横浜へ。
例年、有楽町国際フォーラムで開催されていたが、去年から、横浜マリーナでの開催。
と、付近に、篠原城址なるのものがあるので前回寄り道を企画。
今回、小机城址も。

9:24西小山⇒9:37/9:42武蔵小杉・特急⇒9:47菊名。
スマホで、地図がGPSの位置で見れるので便利。
10:00 篠原城址。10:03 正覚院。今回、その先に行ってみるが、ただの住宅地。

10:15 キューピー第106回定時株主総会へ。
質疑応答は7名程度。
11:40? 採決。11:50? 出場。参加者3000名程度か。
質問者の指定は抽選方式なので、選択の公平性がある^^
おみやげにマヨネーズとドレッシングのミニセット。

新横浜ラントラクトに寄りたかったが、改装中とか。
12:15?マクドナルド。12:46 日産スタジアム。12:54-13:02 鳥山川から、JR横浜線。
13:22-14:35 小机城址。根古谷、空堀、井楼跡、櫓台跡、二の丸跡、本丸跡、富士仙元などがあった。

14:50小机⇒14:55/15:04菊名・特急⇒15:11武蔵小杉⇒15:23西小山。

今日もTDSのダッフィーくん、シェリー・メイちゃんのぬいぐるみを連れて行って、いっしょに撮影。今日のお洋服は、セーター。

今日のレンズのラインナップは、18-140。
D7100/18-140
撮影枚数約249。 うちのダッフィーくんが5。


2019.2.27 小机城址
Capture_0858.

Pict_2212.
@ 根古谷
A 空堀
B 井楼跡、櫓台跡
C 二の丸跡
D 本丸跡
E 門柵
F 櫓台跡
G 富士仙元


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新横浜ラントラクト
新横浜ラントラクトでは、「いつでも休息できる場所をビル街の真ん中に」をコンセプトに、 高さ25mの山、四季折々に変化する樹木、滝が流れる空間を演出しています。3つのフロアには、カフェ、グリルレストラン、ジャズの生演奏が楽しめるバー、インド式リラクゼーション「アーユルヴェーダ」、占いの部屋など、5つのショップが楽しめます。
住所 〒222-0033
神奈川県横浜市港北区新横浜2-15-4
電話番号
ホームページ http://www.lentracte.jp/
開館/閉館時間 店舗により異なります
休館日 店舗により異なります
アクセス ・JR横浜線「新横浜駅」より徒歩 5分
・横浜市営地下鉄ブルーライン「新横浜駅」8番出口より徒歩1分


横浜アリーナ
武道館の約3.2倍の横浜アリーナの面積は8,000平方m。最大収容人員1万7000人を誇る日本有数の規模の多目的ホールです。可動式の観客席はコンピューターで制御され、内外の有名アーチストのコンサート・見本市・各種スポーツ競技大会など多彩な興業が行われます。

※掲載されている情報や写真については最新の情報とは限りません。必ずご自身で事前にご確認の上、ご利用ください。
所在地 〒222-0033  神奈川県横浜市港北区新横浜3-10 MAP
045-474-4000
交通アクセス (1)新横浜駅から徒歩で5分



篠原城址
神奈川県横浜市港北区篠原町2564?16

JR東日本 東海道新幹線 新横浜駅"篠原口出口"の前に聳える古代半島だった丘陵の住宅街の中に"一部だけ現存"する城址。
城址としては大半が宅地化で破壊された。しかし部分的に旧状を留めている。
新横浜駅裏手の新横浜東口店から城址の丘を登ると入口に当たる喰い違い虎口状の生活道路の横に、鎌倉公方時代の城に多い大空堀の跡らしき片側の土塁が撤去された駐車場が有ったり、山頂部の藪の中には堀切等が残る。

戦国時代に北条家がこの城を接収して以降、“篠原代官”として金子出雲守が配置され、その子孫は現在に至るまで篠原城址付近に住んでいる。

江戸時代の新編武蔵風土記稿を編纂した昌平坂学問所(東京大学の前身)の頭取、間宮士信(ことのぶ)公の祖先も小田原北条家臣で相模国十四騎筆頭の間宮家だったが、その同じ北条旧臣が編纂した「新編武蔵風土記稿巻之六十六橘樹郡之九神奈川領の中の篠原村」の項目に“小田原所領役帳”に金子出雲守の記載が有る事が紹介されている。
そこには篠原城の遺跡についても言及されており以下の様に紹介されている。

〇篠原村
-以下中略-
小名(こな:昭和の郵政法成立による住所改定まで使われれ番地に相当)
城山 北方の村境にあり、金子十郎の城跡なることは後に出せり
-中略-
古城跡
村の北の方にあり、金子十郎家忠の城跡なりと云、家忠居住の地は多摩郡金子村(現:調布市)の外にも所々にあり、恐らくは金子氏の子孫が砦のあとか、または当所の代官金子出雲が壘址(るいし:砦の跡)などと言わばさもあるべきか、今見るところ僅(わず)かに四五段許の芝地域は断崖の所ありてから堀の形も残れり
-以下省略-

以上の様に、この記載を以(もっ)て篠原城址として当地が比定される確固たる証拠と成るだろう。

実際に小田原所領役帳の"本光院殿衆"の欄には以下の記載が有る。
“小机 三郎殿。八百八十八貫九百五十六文”
-中略-
百十弐貫四百八十文
猿山。代官遠藤兵部衆
八朔。同小野與兵衛。
本江。同陰山又六。
篠原。同金子出雲。

肝腎の城址としては大部分が宅地化で消滅したが、ここ数年前、奇跡的に残存部が破壊を免れ発掘調査されたので、現在も空堀の跡等を見る事が出来る。

個人的な意見だが、太田道灌公が小机城攻めの際に詰めた"亀甲山城"はこの篠原城の事だと思う。
城郭に専門家は余り知る人もいないが、古代の新横浜一帯は海に突き出した半島と“亀甲峠”と言われた場所で、浦島太郎伝説の有る神奈川区浦島町や日本武尊神話の残る六角橋から続く峠道であり、鶴見区東寺尾中台と旭区上川井町三枚町には亀甲山の地名が現在も残り、その中間地点に当たる神奈川区三枚町は江戸時代まで三枚橋と呼ばれ古代に“店屋”と呼ばれていた事が判明している。この店屋と言うのは古代の駅伝制の中継基地の事である。
つまり、この「鶴見区東寺尾中台〜旭区上川井町三枚町の広大な範囲が嘗ての亀甲峠及び亀甲山」と呼ばれていた事が解り、その峠越えの中継基地が三枚町であり、港が六角橋に有った事が解る。
古代の街道を太田道灌公は江戸から攻め上って来て、現代と異なり亀甲山と言われた地域の中でも店屋地区に近い場所にある北条政権下では篠原城と呼ばれた「亀甲山の城」を小机城攻めの付城にしたのだろう。
尚、日本城郭大系では古代の亀甲半島を亀甲山城と推定しているが、開発前に遺構が微塵も記録されていないので、これは地名の類似性から誤って場所を推測してしまったと思われる。


小机城(こづくえじょう)は、武蔵国橘樹郡小机郷(現在の神奈川県横浜市港北区小机町)にあった日本の城(平山城)。現在は小机城址市民の森として、城の遺構が整備されている。

戦国時代
小机城は、永享の乱(1438年 ? 1439年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとされるが、正確な築城年代は分かっていない。
この城が歴史に登場したのは、長尾景春の乱のうち1478年(文明10年)に起きた攻守戦である。山内上杉家の家宰であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こした。このとき景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立てこもり、敵方の太田道灌が攻撃をした。この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞した。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2か月をかけて落城させたとされる。道灌が歌を詠んだ松は以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存(横浜市神奈川区羽沢町)する。
その後は廃城となったが、この地域が後北条氏の勢力下に入ると北条氏綱の手により修復され、家臣の笠原信為が城主として配置され、小机衆が組織された。笠原氏は、小机城を中心に付近の村に僧侶を招き寺を建立するなど城下の整備に力を注いだと見られ、江戸時代になってもその子孫は代々この地の付近に住んでいた。その後、城主は北条氏堯、北条氏政の弟三郎(上杉景虎ではないらしい)、北条氏光と替わっている。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、無傷のまま落城した。その後、徳川家康の関東入府のときに廃城とされた。

近現代
城跡は地元の人々に「城山」と呼ばれ、1892年(明治25年)2月5日、橘樹郡小机村(のちの城郷村の一部)の九大字(下菅田、羽沢、三枚橋、小机、鳥山、片倉、神大寺、六角橋、岸根)は「小机」としていた村名を改め、城があった郷すなわち城郷(しろさと)村とすることを村議会で決定した。城郷村の名は以後、各集落が1927年(昭和2年)に横浜市に編入されるまで使われた。
2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(125番)に選定された。

現状
小机城の跡は小机城址市民の森として整備されているが、史跡指定等は一切されていない(埋蔵文化財包蔵地の周知のみ)。城郭の主要な二つの郭とその間の細い郭は残されている。現在ニ郭とされている場所の一部では発掘調査が行われた。現在「本丸」とされている西側の郭では野球が行われたりしていて、遺構が徐々に傷んでいる。「本丸」の西側は第三京浜道路の建設の際に破壊された。また、この城跡の地下には横浜線の城山トンネルが貫通する。第三京浜道路を挟んだ郭の側には堀切の痕跡があるが、それより先の場所は宅地となり開発が進み遺構は確認できない。
主要な二つの郭のうちどちらが主郭であったかは不明である。現在の表示では、西側の郭を「本丸」としている。しかし、西村 (2010) は、東側の郭を主郭としている。


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新規作成日:2019年3月13日/最終更新日:2019年3月13日