983 甲子園 都立雪谷高校 VS PL学園

983 甲子園 観測記 平成15年8月10日 日曜 晴れ

都立雪谷高校甲子園初出場

東京都立雪谷高等学校野球部が、全国高校野球選手権大会・東東京大会 2003.7.29の決勝戦において、二松学舎大付に、5-0で勝利し、甲子園初出場が決まった。
都立高校の甲子園出場は、都立国立、都立城東につづいて3校目である。
そして、今年は、雪谷高等学開校90周年でもある。
更に余談ながら、雪校は私の出身校でもある。
私の在籍中は、(記憶の範囲だが)、野球部は、一回戦コールド負けが当たり前で、「9回裏まで戦った」「一回戦初勝利」等で沸く時代であった。
その後、チアリーダー部が先に全国的に有名になっている。
私は元々野球に馴染みがない。いや、むしろ嫌いだ。
運動神経が鈍い為、打てば少々飛んだが、野球の守備なんかやってられなかった。
野球の観戦も、テレビですらほとんど見ない。
そういう意味で、今回も、テレビで見れば十分と思っていた。
が、やはり甲子園初試合。次(第二試合、次回出場とも)があるかも分からないし、少なくとも初出場は二度とない。
しかも対戦相手はPL学園。相手に不足はない、と言うより当たって砕けるには十分だ。
応援に熱を入れるなら、やはり現場だろう。自ずと熱が入って来る。
が、気になるのは、ちょうどやってきた台風10号。
前日移動の夜行バスでは、現着後の試合順延では面白くない。
8/8朝「8/8の第3,4試合は8/9に順延、8/9の試合は、8/10に順延」と決まった。
1試合毎にトコロテン式に順延となれば面倒だったが、あっさりと変更となった。
日付がほぼ確定したので、応援ツアーに申し込むことにした。
がー、電話が繋がらない。コンサートチケットもこんな状況なのだろうか。
果たして苦闘30分、繋がったら、今度は「満席、キャンセル待ち」
「おい、バスは増便すればいいんじゃあないんかい」と思ったが仕方がない。(アルプス席のチケットがなかったらしい。)
結果連絡の夕方を待ったがかかってこない。17:30からの連絡と言う。
20:00が近くなり、もうあかんかと思ったその時電話が鳴った。
A6-27 18:00都庁前集合。
当初、雪谷高校集合の予定であったが、バス40台であれば、都庁前の方が合理的だろう。
8/9後輩と待ち合わせて新宿へ。ちょうど台風通過後で雨もパラパラ来ているが、傘が邪魔になるので持ってこなかったら、地下道が終ったところで降っている。
さて、都庁の駐車場、バスと応援団でごった返している。
18:00集合だが、18:30?出発。19:30?東名、19:45-20:30海老名SA、22:04由比付近、22:50-23:40牧の原SA、02:00-02:40PA?、03:15-05:30草津PA、6:41万博記念公園駐車場。集結したバスは58台。ここでお弁当の朝食。万博の太陽の塔に再会。
そして一路甲子園球場へ。9:50?駐車場到着、9:55徒歩で10:10球場へ。球場内では第一試合が行われているので、外で待機。第一試合終了後、僅か30分で入れ替えと言う。10:40入場、三塁側アルプススタンドは既に満席。先ずは最上段へ。10:57さっそく試合開始、PLの攻撃から。と、さっそく快音が響き打ってくる。さっそく3点が計上された。2回攻撃の前に、両校の校歌&応援。PLの人文字に「雪谷」のエールも。果たして雪谷、ヒットと送りバント、犠牲フライで12:30 1点奪還。その後はPLペースで運び、最後はゲッツーで試合終了。雪谷球児の暑い夏が終った。
撮影だが、135-400mm(デジカメx1.5)にて、そこそこの距離だった。案外球場は狭い。
応援は基本的に攻撃側が行なうとされ、応援状況を撮影する為に下の方に居ると、バッターの撮影が難しい。ま、バッターも、ヒットを確認してからでは遅いので、ピッチャーの投球後、見切りで写すことになる。ただ、ビデオと違い、一瞬を切り取ってしまう為、どんなもんだろうか。
試合終了後、第三試合のチームとの入れ替えの為、直ちに追い出し。が、不慣れなわが校はなかなか退場が進まない。
場外に出ると、こんどはバスの駐車場が追い立てられる為、急行。
14:30?発。15:20-15:45吹田SA、17:10-17:30養老SA、19:45-20:05浜松SA、9:02静岡付近、10:10渋滞地区。海老名SAで配車変更、1.渋谷行き、2.雪谷行き、3.海老名で夜明かしに分割。渋谷行きにて撤収。23:22発、24:15渋谷、24:20⇒24:25/24:30目黒にて撤収。

風説では、PLは3年間出場停止だった為、良い選手が他校へ回るし、かつての名声はないとも言われていた。
が、勝ってみると、設備も充実している私立校、強豪と称されていた。

対する雪谷は、最近の都立離れの為、入試倍率が低下傾向で、一時期1.0を割る時期もあり、為に学力よりもスポーツに特化した生徒が集まったとも言う。
そしてそれが今回の3年生であるとも。
これが真実なら、今回の甲子園初出場での人気により、入試倍率があがるという事は、スポーツ選手の敷居を高くするとも言い、その論理なら、甲子園は再び遠のくと言う。
負けてみると、校庭も狭くと協調されていたが、都立の中では校庭や体育館、プールなど、相当充実しているのだが・・・。
ホームランで新幹線に当たると言うが、どの方向に打っても場外となるような狭い校庭の学校は腐るほどある。

結果的には13-1で、歯が立たなかったと言える。
が、PLも、かつての面影は薄い。雪谷の1点は、PLの甘さとも言える。
しかし、応援団のエールなど、さすが常連校の風格、一枚も二枚も上であった。

また、負けはしたものの、1得点の前後など、なかなかの試合展開であり、点数差こそ圧勝であるが、完封でもなく、初出場ながら、なかなか沸かせてもらった。

当初、参加できない予定だった雪谷ブラスバンドも、1日順延のおかげで、応援に駆けつけることができた。
が、応援団は男子が居るものの、イマイチ気迫が感じられなかった。
チアリーダー達の熱演は、さすがである。
ま、雪谷は、元来が女子校であり、その流れは今も変わっていないようである。
が、今時のミニスカートとルーズソックスには、やはり出身校当時を考えると、時代を感じざるを得ない。


東京都立雪谷高等学校 沿革
大正 2年 4月(1913) 調布女子実業補修学校 東京府荏原郡調布村大字下沼部に開校
昭和 3年 4月(1928) 東調布女子公民学校と改称
昭和10年10月(1935) 東京市立東調布高等家政女学校と改称
昭和16年 5月(1941) 東京市大森高等家政女学校と改称
昭和18年 7月(1943) 東京都立大森高等家政女学校と改称
昭和20年 5月(1945) 戦災により校舎全焼 東調布小学校校舎借用
昭和21年 4月(1946) 東京都立雪谷高等女学校と改称
昭和22年 6月(1947) 東京都大田区久ヶ原に独立校舎落成移転 (開校記念日)
昭和23年 4月(1948) 東京都立雪谷新制高等学校と校名変更
昭和24年 4月(1949) 男女共学実施 (男子50、女子300)
昭和26年 1月(1951) 東京都立雪谷高等学校と校名変更
昭和27年 8月(1952) 新築校舎管理棟竣工
昭和29年 4月(1954) 校歌制定(作詞・本校教諭 故工藤武富、作曲・本校教諭 故玉井光廣)
昭和29年 9月(1954) 校内食堂、図書館、体育館竣工
昭和35年 4月(1960) プール・鉄筋校舎落成
昭和49年 6月(1974) 鉄筋校舎落成
昭和56年 5月(1981) 新化学教室・ホール竣工
昭和58年 4月(1983) 体育館竣工
平成 7年 4月(1995) 校舎改築工事
平成 9年 7月(1997) 校舎竣工
平成10年 5月(1998) グランド・テニスコート竣工
平成10年11月(1998) 新校舎落成記念式典挙行


Dcim0494/DSC_7869. Dcim0495/DSC_7902. Dcim0495/DSC_7970. Dcim0495/DSC_7981. Dcim0495/DSC_8010. Dcim0496/DSC_8103. Dcim0496/DSC_8110. Dcim0496/DSC_8111. Dcim0496/DSC_8114.

戻る TOPに戻る

新規作成日:2003年8月10日/最終更新日:2003年8月21日