鄭成功

鄭成功 (国姓爺)Zheng Cheng-gong 1624-1662

平戸出身。明朝の遺臣。幼名、田川福松。名は森(しん)。鄭芝竜の長子。
母は田川七左衛門の娘。
7歳の時、父の許に赴き、南京の大学で学ぶ。
清朝の支配に対抗し、明朝復興運動を進める。
隆武帝から明朝の国姓「朱」を賜り、国姓爺と称す。
1650年〜1662年 国姓爺合戦。
 明朝の再興を図って清に抗戦。
 廈門、金門島、台湾で戦う。
1661年 台湾を占領
1662年 死去(病死)
近松門左衛門作の「国性爺合戦」に「和藤内(和唐内)」の名で登場する。

中国・明王朝の遺臣で台湾の支配者(1662)。明の皇帝よりその姓(国姓)「朱」氏を賜ったので、「国姓爺」と呼ばれる。父は中国人海賊の首領で明王朝の遺臣、鄭芝龍(テイシリュウ/Zheng Zhi-long)。母は長崎平戸商人、田川七左衛門の娘。日本の平戸で生まれ、幼名を「福松」、のちに「鄭森」と改め、明の皇帝 唐王朱由ッ(シュユウショウ)より国姓を賜った際に「鄭成功」(朱成功)と改名した。明王朝滅亡後はオランダ支配下の台湾を制圧・支配、大陸反攻の拠点とし、病没するまで明王朝復興を悲願に、大陸の清朝と戦った。日本では近松門左衛門の「国姓爺合戦」で有名。
鄭芝竜は謎の人物李旦(リタン)の後を継いで、海上権を握り、日本南海貿易に活躍した。明末、招撫に応じて都督となり、1644年明滅亡後、明回復運動を行ったが、やがて清に投降した。鄭成功は、その海上権を受け継ぎ、厦門(アモイ)、金門島を根拠地に福建沿岸を荒らしまわり、清軍を悩ました。
父鄭芝竜の清への投降勧告にも応ぜず、1658年には、長江をさかのぼって鎮江(チンコウ)を陥落させ、南京にせまったが、一敗地にまみれて厦門に逃げ帰った。1661年、抗清復明と大陸反攻の新たな基地を求めて、オランダが植民していた台湾を攻略、台南に政府を作ったが、翌年志を遂げられぬままに急死した。
徳川幕府にたびたび援助を求めていたが得られなかった。近松門左衛門の『国姓爺合戦』は、彼をモデルにしたものである。


国姓爺合戦

1650年〜1662年、中国・明代末期、清朝の支配に対して鄭成功が起こした明朝復興を目的とした一連の戦乱
1650年 廈門を占領
 成功は父・鄭芝竜の降伏勧告を拒否(1661年 芝竜は処刑される)
1658年 南京への攻撃を開始(この攻撃は失敗に終わる)
金門島で抗戦
1661年 清朝の遷界令に対抗して台湾を占領。  オランダ人を駆逐し、福建・広東からの移民を受け入れて台湾経営に尽力
1662年 鄭成功死去


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新規作成日:2002年2月26日/最終更新日:2002年2月26日