小栗上野介

小栗上野介(1827-1868)
小栗家は、代々徳川家に仕えた旗本。
上野介忠順は、小栗家12代目の当主として優れた才能と人格を兼ね備えていました。
安政七年/万延元年(1860)34歳の時、井伊大老の抜擢により日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使節団の一員として米艦ポウハタン号で渡米し、地球を一周して帰国。その後八年間幕府の要職を歴任し、数々の業績を残し、日本の近代化を押し進めた。慶応四年/明治元年(1868)三月、幕府から帰農許可を得て領地である権田村に移住。東善寺を仮住まいとして観音山に住宅建設を進める。65日後の同年閏四月六日、西軍(明治新政府軍)のため罪なくして倉渕村の烏川水沼河原で家臣三名とともに斬首される。翌七日、養子又一も高崎城内で家臣三名とともに斬首される。

妻、道子は、権田村の村人に守られて会津へ脱出し苦難の旅の末会津戦争のさなかに実子(女児)を出産。
東郷平八郎大将は、日露戦争日本海海戦後に、孫2名を招き、祖父小栗上野介の業績を称えたと言う。
このとき贈られた、東郷平八郎の書額「仁義礼智信」は、東善寺に所蔵されている。

主な業績
小栗上野介の胸像は、彼の建設した横須賀造船所の対岸にある横須賀港のヴェルニー公園(旧臨海公園)に、ヴェルニーの胸像とともに、建てられている。

小栗上野介の寺 東善寺
群馬県群馬郡倉渕村権田169
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横須賀造船所

幕末になると、江戸の近海に外国船がしばしば現れるようになり、海を守ることが叫ばれるようになりました。特に嘉永六年(1853)浦賀沖に米国のペリー艦隊が現れてからは、幕府・諸大名も強力な海軍の必要を感じ、軍艦や船舶の建造や購入に力を入れ、海軍の拡張を図ってきましたが、それに伴い修理や器具製造の必要がおこり、横須賀製鉄所の建設が計画されました。
この製鉄所の建設を進めたのが、幕府の勘定奉行小栗上野介忠順と目付栗本瀬兵衛でした。彼らは、フランス公使レオン・ロッシュとともに、幕府の重臣たちを説きふせ、日本の将来のため強い意志のもとにこの事業の実現を図りました。
幕府は元治元年(1864)にこの建設をロッシュに依頼し、ロッシュはヴェルニーを招くことになりました。 同年小栗、栗本、軍艦奉行木下謹吾、ロッシュ、ジョーライスなどが横須賀港を見学した結果、湾の形に変化があって要害の地であり、風波の心配もなく湾内も広くて深い、また、景色も優れ、フランスのツーロン港に似ているなどの理由から、横須賀を製鉄所の建設地と確定しました。
製鉄所の敷地は約24万6000平方メートルで、慶応元年(1865)九月二十七日に関係者が出席して鍬入式が行われました。造成は順調に進み、明治維新によって、製鉄所の一切は明治政府に引き継がれましたが、工事は引き続き進められ、ドックや船台なども次々に完成していきました。
日露戦争に際しては、佐世保海軍工廠などと共に、連合艦隊の艦艇整備にあたり、艦隊戦力を維持し、日本海海戦における勝利の基盤となっている。
そして昭和二十年(1945)の終戦まで、海軍造船所として発展を続けました。数々の軍艦を建造した施設と造船技術は優秀なものであり、列強諸国の注目するところでしたので、戦後は米海軍の基地となり、今日に至っております。



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新規作成日:2002年11月20日/最終更新日:2004年10月1日