李ライン

李承晩ライン(李ライン)
1952年、昭和27.1.18、韓国の李承晩大統領が行なった、一方的宣言「海洋主権宣言」によって規定された領海水域。
同宣言により朝鮮半島周辺(最大二百浬)の水域内に存在する、すべての天然資源、水産物を利用する権利を主張した。日本側はこのラインを認めず、結局65年の日韓漁業協定でこのラインが廃止されるまで、韓国警備艇による日本漁船の拿捕が続いた。
そして竹島は、この李ラインの域内に52年に組み込まれていた。

それ以前にはマッカーサーラインという国境線が存在していたが、徹底した反日主義者だった李承晩は、そのマッカーサーラインより更に日本寄りに李承晩ラインを設定、このラインより韓国寄りの海域では水産物はじめ韓国の国家主権が及ぶと宣言した。
竹島はこの時、李承晩ラインより韓国寄り、つまり李承晩が勝手に宣言した国境線によって韓国領に入れられてしまった。
逆に言えば、竹島を基準に、李ラインが設定されたともいえる。

現代においては、領海12浬、EEZ(経済水域)200浬が定着しているが、当時は領海3浬が国際法上の慣行、国際的常識であり、これを一方的に200浬まで拡大して宣言するのは、国際的に認められるものではなかった。

しかしながら、韓国警備艇により、海域内の日本漁船を一方的に銃撃、拿捕するばかりか、海域外の日本漁船をも拿捕連行するに及んでいる。

これに対して、海上保安庁では、昭和27.11.27 李ラインに対し、常時6-9隻の巡視船を哨戒配備して日本漁船の保護に当たった。
昭和29.3.1 李ラインに対し、第七管区海上保安本部に、拿捕事件対策本部を設置している。

海上保安庁の巡視船は、韓国警備艇との直接衝突を回避するため、搭載している武装を外し、哨戒に当たっている。
そして、時には韓国警備艇と日本漁船の間に割って入り、韓国警備艇の進路を妨害して日本漁船の避難を助けたり、時には速力の遅い日本漁船を曳航して高速で離脱を図ったりと、まさに命がけの保護を行った。
韓国側の行動は執拗かつ強行であり、時には横抱き曳航状態にある日本漁船に移乗し、巡視船とのロープを切断するなど、言語を絶するものであった。

昭和39.10.5に発生した、第56宝洋丸事件では、更に注目すべき事件でもある。
第56宝洋丸に船体を接触させてまで拿捕した韓国警備艇により、第56宝洋丸は連行されていったが、この際、船体に損傷を受けていた第56宝洋丸は、沈没するに至った。
この際、第56宝洋丸の乗員7名は、あらかじめ韓国警備艇に収容拘束されていたため、難を逃れたが、韓国警備艇の乗員4名は、第56宝洋丸に移乗していたため、海上に漂うこととなった。
このとき、3名は韓国警備艇に救助されたが、1名は、第56宝洋丸の釈放を求めて追走していた巡視船「あわじ」に救助された。
ここで、第56宝洋丸の乗員7名と、韓国警備艇の1名の交換が洋上で決定され、7名の釈放を得たという事例である。

昭和40年、時の朴正煕政権の下で日韓漁業協定が成立し、李ラインは事実上消滅した。



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新規作成日:2004年12月20日/最終更新日:2004年12月20日