日露戦争でロシア海軍は本当に弱かったのか
日露戦争では、東郷平八郎大将率いる日本海軍連合艦隊が、対馬沖において、ロジェストベンスキー中将率いるロシア海軍第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)を打ち破り、華々しい勝利を得たとされ、世界的にも賞賛されています。
と同時に、ロシア海軍は張り子の虎の如く言われています。
この背景には、(世界地図を広げてみて、世界中の陸地の1/3を占める)大国ロシアが、極東の果ての(地図上では−特に大西洋中心の地図では−端っこで見落とす程度の)新興国日本に、海戦で大敗したと言う点に有ります。
このことは、一般的に見て、そのとおりなのですが、真実を見つめる観点ではどうでしょうか。
ロシアは大陸国で、当時は陸軍国とされていましたが、幕末当時ですでに、大艦(当時で言う黒船)を装備し、ペリーよりも早く、しばし日本と接触している海軍を持っています。
日露戦争当時も、英仏に次ぐ(アメリカより遥かに強力な)海軍を有し、バルト海、黒海、極東と、それぞれ艦隊を有していました。
対する日本は、その1つの艦隊にようやく対抗すべく程度の海軍を整備しつつあったに過ぎません。
バルチック艦隊の敗因の一つとして「6ヶ月にも及ぶ航海で、乗員の披露は極限に達し、海戦どころではない」とされていますが、どうでしょうか。
確かに疲労の蓄積は有るでしょう。逃亡を恐れ、また、日英同盟の制約から、基本的に無寄港で、半年もの航海の果てに戦闘をしているわけです。
これは、極寒の地で閉ざされた越冬を耐えうるロシア人の国民性が成せる業でも有ります。(陽気なヤンキーなら2ヶ月で発狂するそうです。旧ソ連海軍が潜水艦を多数装備できたのも、ひとえにロシア人の国民性のなせる技です。)
しかし、この局面で、日本海軍の損害が軽微と言うのは、日露比較の問題であり、日本海軍に損害がなかったわけでは有りません。旗艦「みかさ」も、通信室に命中弾をうけ、また、諸艦も無傷ではありませんし、小艦3隻とは言え沈没艦も出ています。
これは、ロシアの戦力が、当時の普通の水準であったのに対して、日本海軍の錬度が、その数倍に達していたことに有ります。
テレビゲームなどで、相手よりレベルを数段上げてしまうと、勝負にならないのと同じです。
戦略上ありえませんが、もし、双方がインド洋で戦っていたら、とてもこうはなっていません。日本海軍の疲労と、(バルチック艦隊回航の間、整備補給訓練に充当していた)錬度向上期間の短縮などのマイナス要素です。
さらに、連合艦隊がバルト海迄攻めて行けば・・・。これはまったくの論外で、コテンパンにやられているでしょう。いや、艦隊が途中無傷で回航できたかも疑問です。
さて、ロシア艦隊の錬度が低かったのか。そもそも、何十隻と言う大艦隊を半年もの航海で1隻も失わず遠征すること自体、大事業ではないでしょうか。
当時では新造艦などでも、回航途上での海難などでの喪失も、頻繁に起きています。
フランスからの畝傍がいなくなったのも、このわずか10年程度前ですから。
ロシア革命直前期でも有り、士気も低下していたと言われていますが、目立った反乱も無い事から、大国の海軍を十分象徴する状態ではないでしょうか。
日露戦争直後、アメリカ海軍が「ホワイトフリート世界一周」を実施していますが、これは来るべき日米海戦を想定し、そもそも艦隊が遠洋航海の後海戦を実施できるかを実験したものです。この航海は、募集広告とおり、世界の国々を巡り、港港で見分を広めながらの楽しい航海であったのですが・・・、実際遠征の場合は、そう簡単には行きません。
さて、対馬沖海戦以前の、ロシア太平洋艦隊はどうだったのでしょうか。
開戦当時の太平洋艦隊司令官スタルクは別にして、交代したマカロフ中将は、世界的な名将と謳われています。が、不運にも、旗艦ペトロパブロフスクが触雷し、戦死してしまったことが、不運の始まりでした。
黄海海戦で、ロシア艦隊が、ウラジオストクへ移動しきれなかったのは、たまたま旗艦ツェザレウッチの艦橋に命中弾が有り、ここで操舵手が戦死して舵が切られ、後続間がその進路に従い、艦隊行動が混乱した為と言われています。
すなわち、ある意味、たまたまの事件で勝敗を左右してしまったわけで、シミュレーションをしても、生起し得ないような要素なのです。
「東郷平八郎は運が強いから」連合艦隊司令長官になったのは、まさにこのことかも知れません。
戦争は、あらゆる要素を駆使して勝利を導けば良いので、運でも騙しでも勝てば良いのでしょうが、これが戦力として「強い」かどうかは別の話です。
そういう観点から、日本海軍も優秀だったが、ロシア海軍が張りぼて艦隊だったかのようなほど、お粗末な艦隊だったとは、決して考えられないのです。
もちろん、綿密な作戦計画、隙の無い艦隊行動、など、日本海海戦で見せた、連合艦隊の活躍そのものに、なんら影をさすものでは有りません。
新規作成日:1999年5月28日/最終更新日:1999年5月28日