攻撃と防御

自衛隊は「専守防衛」を謳っている。
あくまで防衛に徹するという。

守りとは、基本的に、相手の攻めから守ることである。
我が国の場合はどうであろうか。
相手の攻め、すなわち攻撃の判断はどうであろうか。
原則として、相手が攻撃を意図し、実際に損害の確認を持って、攻撃と判断するらしい。
ある意味、あほらしくも聞こえるのだが・・・。
・相手政府が攻撃の意図を持たなくても、内乱等により、暴発もある
・実際の損害の確認をしないうちに実動すれば、 攻撃の存在を証明できない
などによる。
前者に対しては、国家による「戦争」ではないにしろ、我が国に対する危害であるから、対処は必要であろう。
後者は、あくまで政治的なものである。
自衛隊の実動は、すなわち「戦争」として、周辺諸国を始めアレルギーが強い。
しかしながら、最初の「損害確認」となって犠牲にされても堪らない。

最近、「ミサイルなどの飛来は攻撃とみなす」ことが可能という見解が出ているようだ。
航空機の場合は、意図が見えないが、ミサイルがロックオンして飛来する場合は攻撃と判断し得るという。
むしろ当然ではある。

その昔、攻撃は最大の防御という論理があった。

防衛とは、集ってくるハエを追い払うようなもので、次から次えとやってくる。
元を断たなければ終らない。

ということで、相手の基地を破壊することが、すなわち「防御」なのである。
アメリカが現在主張しているイラク攻撃は、まさにこの理論によるものだ。

もちろん、自衛隊の場合、相手の基地は相手の領土にあり、現時点で「可」とする見解は出ていない。

が、諸外国では、相手の基地、すなわち戦力打撃は当然の範疇である。
我が国においても、米軍基地(支援可能な我が国施設を含む)などは、相手側の攻撃目標になっているわけである。

また、近代戦においては、総力戦であり、直接の戦力を叩くと共に、継戦能力を削ぐことも重要とされる。
軍需工場や補給路を断つのである。
これらは、戦略爆撃とされる。
更にこれらを支えているのは、かの国民であるから、戦意喪失を狙い、一般市民をも巻き込む、無差別爆撃へと発展している。
そして、これを正当化する理由は、国民は国家意思の母体であるという論理である。
悪い国政は、悪い国民にも責任があるのである。

攻撃側にとっては、すべては「攻撃は最大の防御」の範疇だ。

サッカーにおいて、味方コート内でやりあっているのは「防御」であるが、ゴールを決められるリスクが高い。
が、相手コート側でやりあっていれば、ゴールを決められるリスクは極めて低いのである。

が、サッカーと戦争とは大きく異なる。

しかし、我が国の戦い方と論理は、必ずしも、相手と同じではない。
我が国が可能とする範囲で、相手が闘ってくるなんて想定は存在しない。

防衛の範囲は、時に応じて常に見極める必要が有る。



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新規作成日:2003年2月18日/最終更新日:2003年2月18日