日露戦争旅順港閉塞作戦で失われた船舶は「戦禍喪失」なのか
日露戦争において、旅順港のロシア太平洋艦隊は、日本にとって大変な脅威であった。
これを撃滅することは、作戦上もっとも重要な課題であった。
が、ロシア太平洋艦隊は温存策を図り港から出てこない。
以降絶対に動かないのなら問題はないが、そんな事は有ろうハズもなく、脅威である。
日本海軍は洋上決戦を待ち望んだが、ロシア太平洋艦隊は挑発にも動じない。
港から出ないのなら、陸上から砲撃しよう。
陸軍の乃木3軍による決死の攻撃もまた、この為であった。
しかるに海軍では、旅順港の港口を閉塞してしまう作戦を決行する。
旅順港閉塞作戦である。
老朽船舶をこれに当て、港口に沈没せしめ、艦隊を湾内に封じ込めようとするものだった。
結果的には目的を十分達成できず、作戦は失敗に終った。
物語は、第二回攻撃の福井丸指揮官 広瀬少佐の戦死と、行方不明となった杉野上等兵曹の美談が大きく語り継がれることになる。
さて、この作戦には多くの船舶が動員された。
港口に爆破沈没せしめるのであるから、船舶としてはもはや再生しないことになる。
いくつかの本や資料による、私の認識としては
「老朽化した船舶が、海軍に買い上げられ、作戦に使用された。」
と言う物である。
さて、先日、日本郵船歴史博物館に行ったところ、展示の解説中で
「日露戦争中の船舶喪失数は11隻」とあった。
常陸丸などの攻撃による船舶は当然としても、旅順港閉塞作戦にあたった船舶8隻が含まれているのである。
館の担当者に尋ねたところ
「社史とうにもそのように扱っている」
「使える船を沈められたのだから喪失である」
とのことだった。
が、ふに落ちない。
「買い上げられた船舶」はすなわち売船である。
確かに会社にとっては減船になるのだが、これを喪失とは言わないだろう。
そうでなければ、世の中の船は全て、喪失と言うことになるだろう。
日本郵船50年史には、明確な記載がないが、各船の関係記録に興味深いものがあった。
基本的に、日露戦争海戦に当たり、順次陸海軍に徴用されている。
従って、徴用の記録が残っている。
が、旅順港閉塞作戦参加船舶は、その作戦による沈没の日をもって、徴用解除となっているのである。
また、第3次作戦においては、作戦を中止し、生還した船舶もあり、この船の徴用解除は、別の日付となっている。
調査が完結したわけではないのだが、ここで新たな考察ができよう。
日露戦争中、日本陸海軍は、船舶を大幅に徴用した。
これには、用船料が支払われている。
旅順港閉塞作戦は、作戦上必要なものだが、船舶を爆破沈没させるという事から、優秀な船舶を当てる必要はない。
自力航行可能なことが条件だが、むしろ、老朽船舶であるほうが望ましい。
しかしながら、当時の状況は、可動ながら解体を待つべき老朽船舶が係船されているほどの豊かな状況にはない。
しかるに、既に徴用してある船舶の中から、比較的老朽船舶を選別し、これに当てる。
一般の作戦の場合は、戦役従軍と言う事情から、戦禍沈没のリスクは高いものの、原則的に、沈没はしない事を前提としている。
が、旅順港閉塞作戦においては、目的海域において、爆破沈没させることが前提であり、特別な契約を伴ったものと考えられる。
これを、「政府が買い上げ」とするのが一般的だったが、生還した船舶は、買い戻すのかと言う問題が残る。
また、個人が買い物をするように、品物と対価を同時に取り交わすものではなく、契約日と、船舶の引渡、対価の支払いは、大きく日付の異なるものであろう。
この契約日、または船舶の引渡日がテーマとなる。
おそらく、船社との取り決めでは、船の選定、指定を決定し、すなわち、喪失することを内諾する。
そして、作戦により船舶を沈没せしめた日を持って、政府が対価を支払うことを保証する。
と言うことになっていたのではなかろうか。
用船解除日が沈没日となっていることは、これを裏付けるものと考える。
細かく言えば、現場に着底し、航路を封鎖しつづけることにより、価値を発生し続けてはいるわけだが、一般船舶としての能力を失った日をもって、「政府が買い上げた」と言うことかもしれない。
厳密に言えば、かかる契約文書を確認したいし、船籍簿上の喪失日付や、原因なども見たいところだ。
が、必ずしもちまたで言われていたような、
「老朽化した船舶が、海軍に買い上げられ、作戦に使用された。」
と言うことは正しい表現でもないようである。
新規作成日:2003年7月5日/最終更新日:2003年7月5日