フィギアスケート表彰式に見る国旗国歌と国際感覚
2004.11.6のフィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズ第3戦、NHK杯国際競技大会で、日本の女子選手が金銀のメダルを獲得した。
金メダルに輝いたのは荒川静香選手(22)、銀メダルは安藤美姫(みき)選手(16)愛知・中京大中京高2年だった。
表彰台に上がった2人は、国旗に対して君が代を歌っていた。
この姿には、メダル獲得以上の感動を覚えた。
たかがフィギアスケートの女子選手にしてのことなのにである。
「たかが」というのは語弊が多い。
が、あえて「たかが」といったのは、以下によるものだ。
自衛隊員などは、国家国民のために命をはっている。
自衛隊員が国家国民の象徴たる国旗に対して礼を尽くすのは、至極当然のことだ。
国旗掲揚、降下に際しては、国旗に正対し敬礼と教育される。
が、一般の日本人の場合、日教組、野党主導による、国旗国歌をないがしろにするキャンペーンが半世紀に及んだため、国民の間には、日本人の宗教感同様、いい加減なものとなっている。
が、これが国内で閉塞していれば、何もなかった事で済ませられたかもしれない。
しかし21世紀に至り、国際化の中、国際人としての感覚が求められている。
長野オリンピックにおいて、スキーモーグル競技で不幸にして金メダルを受賞したがために表彰台に上がり、着帽のままであったとして顰蹙(ひんしゅく)を買った女子選手がいた。
彼女には非常に気の毒である。
そもそも、彼女にとって、当初から金メダルを期待されていたわけでもなければ、表彰台に上がることも予定外だったはずだ。
運悪く、たまたま他に彼女を上回る選手が3名いなかったばっかりに、悲運が待っていたと言えよう。
そもそも、現代の日本人は、国旗国歌に対する敬愛教育が無いのだ。
あまっさえ、国旗国歌を無視することが奨励されてきた。
そんな風潮の中、予想外の表彰台で、国際儀礼を突然求められても、なすすべが無いのは当然だ。
「チーム団に脱帽を指示するものがいなかったのか」とも言われるが、チーム団こぞって、本人同様、表彰台の心構えもなけれは、国際儀礼などまったくなかったろう。
すなわち、彼女の顰蹙(ひんしゅく)は、大半の国民を代表してのものなのだ。
日本におけるスキーモーグル競技は、世界の舞台に上がるには役不足の競技だったのである。
対して、フィギアスケートは。
幼くして世界を沸かせた伊藤みどりさん以来、国際舞台で活躍している。
すなわち、世界的選手であって、自らも表彰台に上がれる風格を持ち、かつ、その舞台に存在するに足るものである。
それは競技の実力と共に、精神的素養が伴っていると言うことだ。
その昔、武士は元服に際して切腹の作法を心得る。
切腹など、およそする機会の無いことではあるが、武士として最期を恥ずかしからざるに全うするために、必要な作法が為である。
銀メダルの少女は16歳、インタビューに対して「しーちゃんと同じ色のメダルが欲しいです」とけなげに語った。そこにはまだまだ少女の幼さかわいらしさが漂っていた。
彼女の武器は史上初の女子4回転ジャンプ。彼女なら、直ぐにきっと取れるよ。
僅か16歳、民法上は婚姻も可能であるが、まだまだ未成年として扱われる年齢だ。
にもかかわらず、国際舞台において、日本国民を、国際人として代表できる貫禄を持っている。
国際儀礼としては、そこらへんの大人供よりも、はるかに立派だと言うことだ。
しいて言えば、国民を代表する国会議員の何割かよりも、国際人であり、日本を代表する資格があると言うことだ。
国旗国歌をないがしろにすることを生き甲斐にしている連中は、そもそも国際社会の中で存在する価値が無いのだ。
グローバル化、国際化を唱えるなら、国旗国歌に対する作法は心得あるべきものだ。
国際人としての教育とは、外国語教育をすればよいというものではないのだ。
新規作成日:2004年11月9日/最終更新日:2004年11月9日