ミサイル防衛と集団的自衛権

ミサイル防衛のシステムがそろいつつある今日、新たな問題が沸いてきた。

日本に飛んでくるミサイルを、自衛権として破壊するのは良いとして、他国に向かうミサイルを打ち落とすことは、集団的自衛権にあたり、わが国では認められていないという。

確かに、集団的自衛権という、法解釈としては一理ありそうだが・・・。

しかし、そもそも侵略を意図する国家が発するミサイルについて、目標の想定をどのようにつけるのだろうか。

ミサイルがまっすぐ敵に向かうのは、前世紀ならともかく、21世紀の今日、漫画の世界だ。
VLSのように、一旦撃ちあがってから、目標に変針する。
巡航ミサイルのように、あちこち向きを変えて飛んでゆく。

発射したほうは、目標を決めているのだが、それ以外の者は、行き先など知る由も無い。

わが国に害を及ぼすかどうかは、落ちてから初めて判ることであって、その結果を確認することに意味は無い。

そしてまた、目標を正しく狙う保証も無い。

すなわち、疑わしいものは、早めに潰すべきなのだ。

これが艦船や航空機であれば、実際に害を及ぼすなり、領海接近を見届ける必要があるかもしれない。
しかし、モノがミサイルであれば、害を及ぼす以外に効能が無い代物である。
「アメリカのBMDの練習のために、黙って撃ってあげてるんですよ」なんてことはあるはずが無い。

されば、そもそもこういった破壊的ミサイルは、どこの国家が発射したかを無関係に、能力のある者が打ち落としてやることは、人類のためでは無いのではなかろうか。

法解釈は大切だが、法は、解釈論の対象として存在するものではなく、秩序と平和を守るために存在することを思えば、巷の議論は、文学以外の意味を持たない。
ミサイルが落ちては、文学を楽しんでいられない。




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新規作成日:2007年1月3日/最終更新日:2007年1月3日