冤罪事件

冤罪が発覚したとき、捜査当局は、口を揃えて「捜査は適切だった」と言う。
まあ、こうでも言わなければ、たちまち責任を伴うからであろう。
が、ホントに適切だったんだろうか。
一義的には、適切な捜査をしていれば、適切な結果、すなわち真犯人を検挙できていたはずだ。
数学の場合、正しく計算すれば、正解が出る。誤った答えは、その計算途上のミスに他ならない。
たとえば、48365578166 * 5169065 / 6189 = 40395026224371.4315721441266763613
という計算が、正しくできなかった場合、数字の間違い、計算ミス、計算機の不具合、など、何らかの問題がある以外にないわけだ。
もちろん、捜査は数学の様には行かないだろう。
されば、もっと謙虚さがあってしかるべきだ。

もし、正しい捜査をしていながら、冤罪が発生しうるとすれば、犯罪捜査のあり方自体に一石を投じているはずだ。

また、ホントニ「捜査は適切だった」んだろうか。
アメリカでは、必ず「黙秘権」の説明をする。
日本ではどうだろうか。
あたかも捜査員に特権的裁量権があって、発言の如何により、刑の酌量や優遇があるかのごとき誘導をしている。
「自白すればここから出してやる」と言うのは、良く聞くせりふだ。
「罪を認めれば、刑が軽くなる」とか、本来違法ではなかろうか。刑は法に照らした裁判官の裁量であり、捜査員にはそれを左右させる権限はまったくない。
そして密室に監禁し、大勢で詰め寄って吊るし上げる。
強情な真犯人に対しては当然であろうが、原則的容疑者に対しては、正当性を欠くことは言うまでもない。
必ず弁護士をたち合わせるとか、取調べ状況を、録画しておくとかが必要ではなかろうか。やましいところがなければ、公開できるはずだ。
人相風体でものを言うつもりはないのだが、だいたい捜査員は、暴力団組員に負けないくらい、人相の悪いものが多いわけで、ある意味、暴力的圧迫感すら存在する。
街中で、強面の面々に取り囲まれたときを想定すれば、容易に想像がつくだろう。
自白の任意性を追求するなら、一旦解放した後、捜査員と別の場所から電話などで、任意の発言をさせれば良い。これなら強制性はかなり薄らぐ。(真犯人の追求が困難になるのだが)

横暴な捜査に対しては、何らかの制裁や歯止めが必要であろう。
たとえば、与えようとした罪状・刑期を、捜査員に課すとか。
もちろん、問題も多いのだが、冤罪被疑者の痛みを分かると言う意味では、この位の覚悟は必要であろう。
誤認冤罪の場合はどうなるか、それを念頭に置けば、慎重さも増すことだ。
拘留1年とか、最悪死刑とか、いずれにせよ、まったく取り返しはつかない。
これが横暴な捜査によってもたらされたものであれば、捜査員が職を継続し、あまっさえ退職金を受け取るなど、容認できるものではない。

そう言う意味では、松本サリン事件では、第一発見者が、ほとんど犯人のごとき報道をされたにもかかわらず、逮捕に踏み切らなかったのは、快挙英断といえるだろう。
しかしながら、かなり強引な捜査も、浮き彫りにはなっている。

冤罪事件、これは、すなわち、真犯人を取り逃がしているわけで、二重の問題なのである。
冤罪の被害者、犯人が見えない被害者、この両者を思えば、捜査員には、相当な責任が課されてしかるべきである。


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新規作成日:2000年4月28日/最終更新日:2000年4月28日