脳梗塞と高齢者医療

数年前、うちの祖母が突然倒れ込んだ。
倒れたと言うより、腰砕けと言う感じで、意識もある事から、なにをふざけてるのかと言うような感じだった。

翌日病院に行くと、脳梗塞だと言う。
のーこーそく、以前、田中角栄元総理がかかって話題になった病気である。
脳の毛細血管が詰り、脳細胞への血の巡りが悪くなり、脳細胞が死滅する。
すなわち、神経が機能停止してしまうものである。

果たしてうちの祖母の場合は、左手と左足の自由が利かなくなった。
脳外科での入院を3ヶ月ほどしたのち、リハビリセンター(病院)に移り、歩行訓練などを行ない、介助を必要としながらも、歩けるように回復した。

2003.1 ふたたび倒れ込んだ。
今回も倒れたと言うより、腰砕けと言う感じで、意識もある事から、なにをふざけてるのかと言うような感じだった。

翌日病院に行くと、脳梗塞の再発だと言う。
考えてみれば、高齢者の場合、一個所に障害が出れば、類似の個所の障害もないわけではないかもしれない。

しかし今回は、右手の自由が利かなくなったばかりか、のどの機能が失われた。
食べることも話すこともできない。
これにはまいった。
なにより食べることが楽しみな祖母である。
また、言葉が話せないという事は、意思疎通ができず、どーしよーもない。
確かに90歳と言えば、平均寿命は全うしている。
しかし、命あり息も意識もある状態でありながら、自由が利かないと言うのは地獄の苦しみだ。

平均寿命が伸びている。
しかし、戸籍上の死亡が伸びているだけではあまり意味がない。
動物なら、足の骨を折れば、もはや死に直結する。
動物の寿命=健常な状態での寿命である。
しかし、人間の場合、特に最近の高度医療のおかげで、寿命は延びている。
が、人間の身体、機能、細胞全てが同一のペースで寿命延伸されているわけではない。
部品交換が効くところもあれば、そうでないところも多い。
昔の人間の寿命であれば問題とならなかった部分が、寿命の伸びにより、問題として顕在化してきたわけである。

もちろん、植物状態と言われる人もいる。
人間の尊厳とあわせて、延命医療のあり方も考えなければならない問題だ。
と言って、安楽死がよいかどうかは別次元の問題である。

さて、うちの祖母の場合、再発かつ90歳でもあり、いよいよと言う可能性も懸念された。
が病状は安定した。
しかし、のどの機能が回復しない点はどうしようもない。
意識がなければそれまでだが、意識があればコミュニケーションは図りたい。
あいうえおの50音を書いたボードを作り、言葉を指し示す方式を思い付いた。
が、正確にさせなかったり、数文字しかやってられないようで、なかなかうまく行かない。
とはいえ、経験と勘で、多少の意思表示が理解できるようになった。
定例的な言葉は、それを集めたボードにして、だいぶ意志の疎通がはかれるようになった。
点滴は取れたが、管による流動食であり、味は分からない。

さて、機能回復は困難とされたが、差し迫った寿命と言うことでもないわけで、諦めるわけにも行かない。
脳の機能は代替が可能とされ、脳を活性化させることが肝要と言う。
手先を動かすことは、脳にはよいはずだ。
そこで、手を「握って、開いて」をさせることにした。

これが効を奏したかどうか分からないが、溜息が聞こえるようになった。
たまに咳もする。
咳はつらかろうが、のどの筋肉が使用されるという点ではよいはずだ。
そして、やがて声らしきものの発声も、ごく僅か認められるようになった。
さらに、流動食から、病院食へも変わることができた。

病状が落ち着いたことから転院した。
しかし、もはや前回のようなリハビリはかなわず、安静な入院と言うことだ。
同じ部屋には、病気は別にして、結果的に寝たきり状態ばかりだ。
病院の、医療介護体勢としては問題はない。
が、身動きができない者が寝たきりと言うのも問題だ。

テレビが好きだったのだが、自分でつけたり消したりできない為、見ることもできない。
せめてもの慰めは、お見舞いの時の浪曲のカセットテープ程度だ。

老人介護、高齢者医療
手がかかると言うことは大きい問題だ。
が、ただ食べて寝てと言うことでは、決してよい状態とは言えない。


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新規作成日:2003年7月8日/最終更新日:2003年7月8日