発明の対価訴訟

CDやDVDなど光ディスクの読み取り技術を発明した日立製作所(東京都千代田区)の元社員が、職務上の発明に対する正当な対価を受け取っていないとして、同社に対価の一部として2億5千万円の支払いを求めた訴訟の控訴審判決が29日、東京高裁であった。
翌30日には青色発光ダイオードの発明をめぐって200億円の対価を日亜化学工業に求めた訴訟の判決もあった。

特許法の規定では、職務上の発明をした従業員から、会社側が特許権を譲り受けた場合は、その従業員に対し、「相当の対価」を支払うよう義務づけている。

しかしながら、この対価が欧米に比べて著しく低いというのが論点となっている。

日亜化学工業の訴訟では、「お金の問題ではなく、技術者の名誉の問題だ。現状のままでは優秀な技術者は海外へ流れてしまう。」という。

論点はいろいろあるだろう。
少し特許法を離れて考えてみたい。

そもそも、一般に研究者は、組織の一員である。
ここで言う組織とは、企業、学校、研究所などである。
研究は組織の業務であり、研究の成否にかかわらず給料はもらっている。
一般に仕事をこなすことによる報酬は給料であり、事の大小はボーナスなどで反映するはずである。
もちろん、自分の報酬が分不相応に大きいと思っている人はほとんどいないだろう。

確かに発明は誰でもできるものではなく発明者の能力によるものも大きい。
しかし、組織の設備や研究資金、人材など、多くの支援を受けているはずだ。
研究者一人の発明ではないだろう。

また、研究者を育てたのは、その組織であり、成果ある配置にしたのも組織である。
その素養を養ったのは、学校教育でもあり、本人が頑張っただけと考えるのは幼稚な発想である。

「相当の対価」というのは、成果が上がった場合に当てはまる。
では、成果が上がらなかった場合、組織に研究費を返納するだろうか。
あくまで研究は組織が負担して行っているのである。

別の観点もある。
「お金の問題ではなく、技術者の名誉の問題だ。現状のままでは優秀な技術者は海外へ流れてしまう。」為、高額な対価を支払うべきだと主張するが、成果が上がりそうもない研究はどうなるのだろうか。
一般に「石潰し」と呼ばれる存在である。
組織が研究を継続するのは、もしかしたら花開くかもしれない打算がある。
しかし、緊縮財政の今日、そんな負担はしたくないだろう。
しかも、花開いた場合は高額の負担がのしかかる。

されば研究者は、一般雇用ではなく、成果契約の形になってゆくのではなかろうか。
研究費を個人負担し、成果が出ればそれを売ればよい。
研究者はそのような耐乏生活と打算に耐えられるのであろうか。
それこそ、研究者の芽を摘み、海外流出とならないだろうか。

また、他の仕事にも影響はあろう。
例えば救急救命に携わる人々。
燃え盛る火の中から、あるいは瓦礫の中から命を掛けて被災者の救出に当たる。
人口マッサージなど蘇生救命措置を施して搬送する。
人命を救うべき大事な仕事だ。
が、このような職業の方々は、いちいち「人命を救った」といって、人命の対価は主張していない。
あくまで社会の中のひとつの業務としての分担なのである。

そしてまた、こういった職業の人を維持するためには税金が投じられている。
その負担は、国民が行っている。
だれがどのように偉いのかというのはおかしな発想である。

そしてまた、その技術が実用化されなければならない。
商品化されて初めて価値を生み出す。
その成果というのは、必ずしも研究の成果のみではなかろう。
技術を応用し、量産し、宣伝し、流通し、販売し、回収し、初めて価値が戻ってくるのだ。
研究者以外は2足3文の価値もないというような発想はばかげていよう。
億単位は当たり前という主張もあるのだが、それ以外の仕事の報酬との差がこれほど大きくても当たり前というのだろうか。

特許法の趣旨はともかく、個々の対価を考えるのもよいのだが、周囲の状況とあまりにも乖離したものは、受け入れがたいものがある。


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新規作成日:2004年2月1日/最終更新日:2004年2月1日