佐世保の小学生少女による殺人事件の諸問題
2004.5 佐世保の小学校で、6年生の少女による殺人事件が発生した。
さて、こういう事件のたびに、必ず「心のケア」という言葉が並べられる。
傷ついた子供の心を癒すという意味ではもっともだが、では何がケアになるのか。
「心のケア」という単語を並べることにより、関係者自身が心の安らぎを求めているだけでは無いのだろうか。
「心のケア」なんか、そう簡単に出来るものではない。
慰めの言葉など、気休めでしかない。
むしろ、事件後に「心のケア」をするくらいなら、事件前に気配りをすべきだ。
カッターナイフも持込について、工作等で使用するので学校への持込を禁止することは出来ないという。
あたかももっともらしいが、工作の授業がない日に持込を禁止することくらい出来るだろう。
それ以前に、刃物の危険性を教えることがもっとも大切だ。
事件後の調査で次第に明らかになっているが、加害者の少女は、カッターナイフを振り回すこともあったという。
切らなければ良いのかということではあるまい。
凶器を振り回すことを止める教育が必要なのだ。
クラスの少人数化が叫ばれる。
子供に十分な目が行き届かないためだという。
我々が子供の頃は、1クラス40-50人で、その中の1人がいなくても、先生はすぐに気がついたものだ。
佐世保の小学校では、約20名のうち、2名、1割もが欠けていても、大して気にかかっていなかったわけである。
教育については、日教組がいろいろと偉そうな事を言って介入する。
が、どうだろう。
日教組の目指す教育の結果が、今日を招いているのではなかろうか。
先生とは「先ず生きる」と読むらしい。
教育者である以前に、労働者であることが優先する。
教育を犠牲にしても、ストライキなど、自己主張は譲らない。
個人を大切にすることが間違っているとは言わない。
しかし、一人の個人のみを大切にすることによって、その他大勢が犠牲を払うことは許されることではあるまい。
社会の一員としての位置づけを理解することは、必要なことである。
個人の権利を言う前に、他者の権利も尊重することが必要だ。
加害者の少女に対する批判は多いが、被害者にまったく落ち度が無かったのか。
加害者の少女に対する、誹謗中傷、嫌がらせが犯行の原因といわれる。
もちろん、原因があったからといって、殺人が許容されるわけではない。
が、まったく落ち度が無かったかといえば、そうではないということだ。
たかが子供の喧嘩ではある。
が、今の世の中、教育の荒廃のおかげで、およそ物理的に起こりうる事象は何でもありの時代である。
正当性はともかくとして、必要以上になじることにも問題はあるということだ。
と、同時に、少々の嫌がらせには耐えるくらいの根性も必要ということである。
いちいち押しつぶされていたら、人生はいくらあっても足りない。
その意味では、「いじめのない」などという奇麗事で過保護に育てるよりも、麦のように踏まれても強く生きる人生も大切ということだ。
2006.7.13補足
「被害者にまったく落ち度が無かったのか」のくだりについて、ご批評を頂いたので、付け加えたい。
少なくとも、被害者は命を失い、何の反論や意見も出せない。
殺人という結果において、これ以上の結論は存在しない。
ただ、問題には原因が存在するということもポイントである。
この原因にどれほどの正当性があるかではなく、過程の問題である。
本項では、そもそもが巷で言われる世論形成に対して一石を投ずることをポイントともしている。
表面的な対策、単に納得する結論を見出すことで安心する傾向にある。
しかし、これでは本質は解決せず、類似の問題が後続する。
事件後に心のケアなんぞを言うくらいなら、日ごろから気配りをしておくべきだ。
「窮鼠猫を噛む」ということわざがある。
弱いものいじめの結果として、致命的な反撃という図式も存在するわけで、人の心を思いやることが全ての原点であろう。
週刊誌並に、表面で善悪を論ずることにどれほどの意味があるのだろうか。
新規作成日:2004年6月6日/最終更新日:2006年7月13日