自殺志願者への勧め
最近、自殺が増えているという。
それも、インターネットで情報を交換し、集団自殺するという。
これに対して、やれインターネットを規制すべきだなどという目先の対応しか思いつかない連中にはあきれてしまう。
自殺志願者には、それぞれ理由があるだろう。
自殺を思いつかないような幸せな人には、気持ちはわからない事だろう。
自殺が許される行為かどうかはここでは議論しない。
最低言える事は、迷惑は最小限にしてもらいたいことだ。
レンタカーでの自殺、現場となった車は、レンタカー会社は、その後その車を使う人は、どのくらい迷惑するだろうか。
鉄道自殺などは、ダイヤの乱れなどで、多くの利用客に迷惑をかける。
飛び降り自殺など、巻き添えを食ったらたまらない。
自殺する側は「そんなこたぁ知っちゃあいない」というかもしれない。
しかし、それではなんら同情はされない。
そそ、自殺者の死体は、司法解剖により切り刻まれる。
自殺の原因には、いろいろなものがあるだろう。
しかし、理解できないものも多い。
不治の病で余命6ヶ月と診断され、前途を悲観しての自殺。
なんとなく同情するのだが、健康な人なら永久とは言わないまでも、寿命が何十年か残っているのに対して「余命6ヶ月」とかなり短い期限が定められればショックは大きい。
だが、理由はともあれ、それを聞いた段階で死んでしまえば、その僅かという余命をも有効に利用することなく、死んでしまうということだ。
自殺の原因のほとんどは、人生の悲観だろう。
意識があれば、喜怒哀楽はあって当然だ。
楽しくもあれば、悲しくもある。
自殺するくらいだから、最悪の状況なのだろう。
ここでも冷静に考えたい。
「最悪の状況」なら、これ以上悪くはならないのだ。
これに対して、「これ以上よくなる希望が見えないからだ」というかも知れない。
では、過去において、これほどまでに落ち込むような暗黒の将来は見たのだろうか。
見えていれば何とかしただろう。
そうなのだ。未来の予測は、その程度にしかわからないのだ。
死んでしまえば、その将来はない。
これ以上ひどい目にあうことも無い代わりに、好転する日も来ないのだ。
さて、人間にとって、命は最大に大切なものとされることが多い。
失いたくない人がほとんどだ。
しかし、自殺志願者は、その命がもういらないという。
そしてその死に方は、はなはだ迷惑になることが多い。
そこで提案だが。
どうせ死ぬんなら、社会のために役立って死んで見てはどうだろうか。
例えば人質を取っての事件で、人質の代わりになってあげよう。
あるいは、警察、消防、自衛隊などの、命がけの活躍に加わってはどうだろう。
地雷除去に行って、代わりに地雷を踏んであげるのもいいだろう。
もし、死んでも、元々本人は死にたかったのであるから、本望でもあるだろう。
「そんな死に方は馬鹿馬鹿しい」という声が聞こえたが・・・。
そうだろう、与えられた寿命を全うしない死というものは、そもそもは馬鹿馬鹿しいことだ。
安易に自殺を止めるつもりは無い。
根本的問題が解決しなければ、今日思いとどまっても、明日も同じことなのだ。
死にたければ好きにすればよい。
しかし、死んでしまえば、自殺したことの後悔すらできないということだ。
一般に、自殺を止めても、再び自殺するというほどの人はごく一部だという。
大半の自殺未遂の生き残りは、その後の人生を歩んでいる。
中には、自殺しなくて良かったと思っているものも多いだろう。
死んでいたら、そういう思いもしないということだ。
昨今、警察の不祥事が多々表面化しているが、この中で責任を取って自殺した話はほとんど聞かない。
責任を持つことは大切な話なのだが、責任を放棄してしまえば、非常に楽だという事例なのだろう。
新規作成日:2004年10月16日/最終更新日:2004年10月16日