事故に見る責任の所在

最近痛ましい事故が多発している。
そのたびに「二度とこのようなことがないように」と言う言葉が聞かれる。
そして大衆の非難、マスコミの追求。

お台場の遊戯施設で、シートベルトが締められない身障者が事故死した。
事故原因として、安全管理が追究され、業務上過失致死として扱われる。
しかしだ。
厳密に安全管理をしていれば、身障者の利用は禁止される。
それでは収まっていないだろう。
バリヤフリーを叫び、等しい権利を主張する。
身障者も、健常者と同一の権利を主張するのはかまわないが、制約が生じることも理解が必要だ。
そもそもシートベルトは安全確保のために必要な設備だ。
これをせずに危険の疑問を抱かないことにも問題がある。
身障者には介助者との同伴を条件としたなら、緊急時には介助者が安全を図る責任を持つと言うことだ。
にもかかわらず、施設側の責任ばかりを追及する。


阪神で、戦後4番目の鉄道事故が発生した。
これにもJR西日本の責任のみを強調する。
定時運行のプレッシャーが事故の原因だと言う。
オーバーランの懲罰。これがプレッシャーでと言うことが正当なら、酒酔い運転でのひき逃げさえ、正当化されるであろう。
脱線防止レールがついてなかったという。
半径300mはゆるいカーブであり、国の基準でも半径100m、JRの基準でも200mまでに脱線防止レールを敷設してあり、それが十分な基準だ。
脱線防止レールの有無が問題なら、国の安全基準自体がいい加減だったことになる。
そしてまた、今回のように車体が傾斜しきってしまえば、脱線防止レールなんぞ何の意味もない。
車体が軽量化のあおりで側面が弱いことが犠牲を増やしたと言う。
では、戦車のような装甲を取り付け、剛性を保てばよいと言うのだろうか。
ATSが旧式だと言う。
最新なら一切の事故はないのか。
地下鉄日比谷線中目黒駅の事故や、土佐くろしお鉄道での事故では、その速度ではATSが作動したにもかかわらず止まれなかったと言う。
要するに、機器に頼ること自体がおかしいのだ。
定時運行は日本の鉄道の誇りである。
遅れに対してシビアになること事態にさほどの問題は感じない。
むしろ、遅刻を問題としない制度のほうが一般に問題だろう。
そして定時運行は利用客の要求でもある。
接続を逃し、飛行機に遅れたら困るだろう。
今回、結果的には一本遅れた程度は問題ないと言うだろう。
しかし、実際に飛行機に乗り遅れたら、それが問題にされる。
もちろん、少々遅れても間に合うように、余裕を持って交通機関を利用すればよいはずだが、必ずしもそうは行かないだろう。
すなわち、定時運行のプレッシャーは、利用者側が与えているのである。


自己責任ということはないのか??
追求するマスコミは、どれだけまっとうなのか??
テレビでも、間違った情報や、アナウンサーの言い間違いなど、日常茶飯事だ。
これの反省はないのか。

犠牲者のみの自己責任を言うつもりはない。
しかし、他人事のように、他力本願で言いたいことを言うのはいかがなものだろうか。
毎日毎日利用者全員が犠牲になるわどの危険はないはずだ。
基本的な安全の水準は高いほうが良いのだが、事故のたびに追求するなら、事前に追及するべきだ。
されば犠牲者は発生しない。
犠牲者を人柱に声高に追及するのはいかがなものだろうか。


北側国土交通大臣は、福知山線の運転再開には、新型ATSの設置が必須要件だという。
「新型ATSの設置は安全のシンボルだ」と。
やはり何かおかしい。
シンボルとは、実体ではないモノをいう。
日本国憲法で、天皇は日本の象徴(シンボル)というのは、国家元首としての国家統治を外す名目だ。-ここでは国家統治の実効を言う-
シンボルは象徴であり、実際の効力を持たない。
されば、新型ATSは、安全そのものではなく、単なる「示し」に過ぎない。
新型ATSがホントに安全の中心であれば、その優先順位は、交通量等の優先順位に基づかなければならない。
福知山線を優先するあまり、他の線区の工事が遅れては見もふたもない。
政治的ジェスチャーでは意味がないのだ。




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新規作成日:2005年5月3日/最終更新日:2005年5月3日