毎日新聞 2004年4月26日 東京朝刊 http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2004/04/26/20040426ddm012070179000c.html 論点: イラク人質事件と自己責任  ■事件を契機に噴き出した「自己責任論」。邦人保護と民間活動をどう考える■  ◆危険地の行動、慎重に−−逢沢一郎・副外相  ◇イラクの現状では国の保護活動に限界  ◇思いは尊いが時期や手段考えてほしい  事件の第一報が報じられた翌9日、私は急遽(きゅうきょ)ヨルダンに向かい、 現地緊急対策本部を立ち上げた。以降、官邸、外務省等と緊密に連携しつつ、関係 方面への協力要請、情報収集・分析、定例記者会見を通じた情報発信等に努めた。 (人質)3人を無事保護した後、経由地となるドバイへ赴き、早期帰国に向けた支 援に全力を挙げた。こうした政府を挙げての昼夜を問わぬ取り組みと、協力してい ただいた各国・機関、多くの関係者による努力の結果、3人とともに帰国できたこ とは、大変うれしく思っている。  しかし、今後、同じような事件が発生した場合に同様の成果を得られる保証はな い。この機会に、同様の事件の再発を防止するため、政府の役割と国民一人一人の 自由と責任について、じっくり考えてみる必要がある。  海外に滞在する邦人の保護は政府の重要な任務の一つである。いかなる経緯があ るにせよ、邦人が巻き込まれた事件が発生すれば、政府はその保護に全力を挙げて 取り組む。しかし、現地の警察制度が未整備な状況では、邦人保護についても、日 本政府ができることにはおのずと制約がある。  それゆえイラクには、03年5月に主要な戦闘の終結が宣言されて以来これまで 28回スポット情報(注意喚起のための連絡)を出し、イラクへの渡航の見合わせ、 同国からの退避を強く徹底して勧告し続けてきた。  しかし、残念ながら、今回の事件が発生した。私は、イラクのストリートチルド レンを支援したり、イラクの厳しい現状を世界に知らせる、という熱い思い自体は 尊いものだと思う。しかし、もし事故があったとき必要となるエネルギーやコスト、 そしてもっとも大切な国民一人一人の命に思いを致す時、自らの思いを行動に移す 時期、手段等については慎重に検討していただく必要があると考える。  今回、御家族はもとより、国民の皆様は大変心を痛められたことと思う。また、 日本政府・国民各層の要請に応えて、情報収集・人質探索に尽力していただいたイ ラク国内、アラブ諸国そして友好国の協力を忘れてはならない。更には、治安状況 が悪いバグダッド市中を、自らの身の危険を顧みず、事件の解決に向けて奔走した 日本政府の職員がいたこと、東京をはじめとして各地で多くの関係者が尽力したこ とも記憶に留めていただきたい。  事件の再発防止には、危険な地域への渡航を禁止する法律を制定すべきだ、との 議論もある。度重なる勧告にもかかわらず渡航者が後を絶たない現実を前に、危険 情報をより実効的に担保できないか、という問題意識からだと理解している。しか し、「海外渡航の自由」は憲法第22条で保障された権利であり、慎重に検討する 必要がある。こうした憲法に掲げられた大切な自由を守るためにも、禁止や規制で はなく、あくまで国民の皆様が「自らの安全については自らが責任を持つ」という 認識の下で行動していただくことが非常に重要だと考える。 ………………………………………………………………………………………………………  ◆NGOや市民を圧迫−−浜辺哲也・経済産業研究所総務副ディレクター  ◇思いやり失い被害者を非難する日本人  ◇国民を保護するのは国の最重要の任務  以下は、あくまで個人的な見解である。  今回イラクで人質となった5人の被害者が危険を承知でイラクに向かった理由は 何か。親を失った少年たちの支援や劣化ウラン弾の被害調査は自衛隊にできない。 ジャーナリストがいなければ市民の視点でイラクの状況を知ることができない。  アンマンのホテルに被害者の一人はメッセージを残した。治安が悪化するバグダ ッドに行けるのは、「完全に自己責任とれる方に限ります」、と。彼らは使命感と 共に「自己責任」も意識していた。  しかし、個人がコントロールできない力によって誘拐された。米国の攻撃を受け たファルージャ市民の怒りは同盟国の市民に向けられた。同時期に23カ国以上、 約70人が誘拐され、命を落とした人質もいる。日本人5人が無事解放されたのは、 本人たちのイラクへの想(おも)いが相手に伝わったこと、心ある市民と各国政府 の努力の賜物(たまもの)である。  誰もが無事解放を喜び安堵(あんど)したはずだが「被害者には自己責任の意識 が欠けており、多くの人々に迷惑をかけた」と非難する声が政府や与党から上がっ た。  私は強い違和感を覚えた。何故(なぜ)なら、国民の生命を守ることは国の最も 基本的な役割であり、そのために警察や自衛隊が存在する。外務省設置法には邦人 の保護が規定されており、海外で事故や犯罪が起きた時に、国民を無事保護するこ とは最重要の任務である。ならば、救出費用を国民である被害者に請求する法的根 拠は何であろうか。  何故、政府や与党は人質事件の被害者に「自己責任論」を浴びせ非難するのか。  自衛隊撤退論が起きないよう、人質事件の原因を被害者の「自己責任」に転嫁し ようとする政治的な意図が働いたとの指摘さえ出ている。  マスコミの報道を通じて「自己責任論」や「自作自演説」が広まり、それらに誘 導されて多くの日本人が被害者と家族を責めた。  日本人はテロの危険に加え、雇用や年金、金融財政の将来に不安を覚え精神的に 追い詰められ、相手を思いやる余裕を失っている。自分では行動を起こさずに、政 府と違う形で国際貢献に取り組む個人を「迷惑だ」と言って否定する。国際世論は 奇異の目で見ている。国の政策に異議を述べることが非難されるなら、多くのNG Oや心ある市民は圧力を恐れて口をつぐむであろう。それでは、第二次大戦前と変 わらないのではないか。日本の民主主義は瀬戸際にあるのかもしれない。  今回の事件はNGOと市民に教訓をもたらした。(海外での活動で)危機が迫っ た時、再び政府は自己責任を求めるであろう。これまで以上に、危機管理、自己統 治の仕組みを市民活動の中に築かなければならない。政府の力に頼ることなく、そ の活動を世界中の人々に伝える仕組みをどうやって作り上げるか。  5人の解放には国を超えた市民のネットワークが大きな役割を果たした。そこに 希望の光を感じる。 ………………………………………………………………………………………………………  ◆政府の存在理由とは−−加藤尚武・鳥取環境大学長(倫理学)  ◇国民の「生命と自由の保障」に例外なし  ◇国に被害者への救出費用請求権はない  イラクで人質になった日本人に対して「政府が避難勧告をしている地域に自ら入 ったのであるから、その結果について自ら責任をとるべきであって、政府が救出す べきではない」という意見が、閣僚の一部、評論家などから出されている。これら の意見は人質解放が告げられる前の時点で、「たとえ人質の救出に政府が失敗して も、その責任は負わなくてよい」という言い訳の伏線でもあったようだ。  さらに解放直後「活動を続けたい」という人質発言に、「多くの政府の人たちが 救出に努力したのに、なおかつそういうんですかね」(小泉首相)といった非難が 相次いだ。「国家に救済を求める以上は政府に忠誠を示すべきだ」という感情も背 後にあった。  どういう事情にせよ「政府が救出すべきではない」という結論は出せない。憲法 31条の「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を 奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」という「生命と自由の保障」は、たと え政府の勧告に反して外国の危険な地域に進入した者にたいしても適用されるから である。  たとえば、消防署の勧告に背いて、たき火をして火事になった家に、消防車は消 火に行くべきでないとはいえないだろう。たしかに個人には、他人に危害を加えな い限りで危険を冒す権利があり、輸血拒否、危険なスポーツ、喫煙などが許容され ている。輸血拒否をして治療に失敗しても医師の責任を追及する資格がないという 意味で、患者の自己責任がなりたっている。イラクで人質になった人が「政府が保 護責任を果たしていない」と訴えたら、「被害にあったことは貴方(あなた)の自 己責任ですから、政府に補償の義務はありません」と答えてよい。  自由が奪われ生命が脅かされている国民がいたら、どのような事情があっても、 国家は救出に乗り出すべきである。もしも日本政府が「テロリストの要求する自衛 隊の撤兵はしない。人質に取られたのは被害者の自己責任であるから政府は救出の 努力をしない」という態度を示したら、世界から非難を浴びただろう。そのときテ ロリストの側が人質を解放したら、日本政府の存在理由が問われることになっただ ろう。  山で遭難した人にヘリコプターの費用への支払いが要求されるように、諸費用を 被害者に負担させるべきだという意見もある。しかし、仮に国民の人身保護は国家 の義務だという原理を考えないにしても、今回の人質解放が政府の努力の結果であ ったのか、それとは違う力が働いていたのかを正確に立証することはできないから、 政府に費用の請求権はないと思う。  政府の努力と、人質解放という結果との因果関係がどの程度存在したか、わから ないままの決着であった。自衛隊が武力行使をしないと人質が救えないという状況 が発生しなかったのも政府にとって救いだった。自己責任論議は、人々が国家の存 立根拠を忘れ真の国家意識が荒廃していることを示すものであった。 ………………………………………………………………………………………………………  ■編集部から■  イラクでの日本人人質事件をきっかけに、政府・与党内から「自己責任論」が浮 上しました。在外邦人の保護や民間活動への評価など複雑な要素をはらむ論争はな お尾を引きそうです。「国家」と「個人」の関係をどう考えたらいいのか。この欄 へのご意見は東京本社編集局の「論点」編集部へ、郵便、ファクス03・3211・ 4073、Eメール ronten@mbx.mainichi.co.jp で。 ………………………………………………………………………………………………………  ■人物略歴  ◇あいさわ・いちろう  1954年生まれ。慶応大工卒。旧通産政務次官などを歴任し、03年9月より 現職。イラク日本人人質事件で現地緊急対策本部長。衆院当選6回。 ………………………………………………………………………………………………………  ■人物略歴  ◇はまべ・てつや  1964年生まれ。東京大法卒。旧通産省に入省。産業構造審議会NPO部会の 設置、運営を担当。NPOに関する論文など多数。 ………………………………………………………………………………………………………  ■人物略歴  ◇かとう・ひさたけ  1937年生まれ。東京大文卒。千葉大、京都大教授を経て現職。著書に「現代 倫理学入門」「合意形成とルールの倫理学」「戦争倫理学」など。