Thinking!

2004-02-27
「メルティングポット」なのか?それとも・・・
by peace_student

ブラッドフォード大学の学生の20%以上は「外国人」である。キャンパスを歩けば、様々な「人種」に出会う。「国籍」もまた同様だ。学生の会話を聞いていると、様々な言語が聞こえてくる。英語を話している人の方が少ないくらいである。僕がこの大学へ来て、"ブラッドフォードの感想は?"と聞かれてたときに、"誰も英語を話さない"と答えたら、ジョークだと思われるほどだった。

そんな「多様性」を表現するとき、人種の「坩堝(メルティングポット)」という言葉をよく使う。人種を含め全てが「混ざり合う」という意味である。ブラッドフォードの場合はどうだろうか。確かに、多種多様な人間がいるし、彼らと授業を一緒に受け、セミナーでもディスカッションをする。だから、そういう場面では、「メルティングポット」と言える。では、ひとたびそのような「強制的に集められている場」から離れた空間ではどうであろうか。

現実は、「違う」と言えるかもしれない。傍から見ると、白人は白人同士、黒人は黒人同士、黄色人種は黄色人種で一緒にいることが多いような気がする。もちろん、これは「見た目」の問題であって、さらに突き詰めていくと、同じ出身国同士や同じ言葉を話す人同士などと分類できるのかもしれない(この分類では、「人種」はあまり意味のないものになるが)。

特に気になるのは、マジョリティーである白人とパキスタン系の学生である。それは、白人は白人同士、パキスタン系はパキスタン系同士で固まっている場合が多いことだ。もちろん、お互いに友人であったりするだろうから、そこに何か差別だとか区別があるということを僕は前提にはしていない。ただ、「メルティングポット」という言葉を使うのに適当な環境かと思うと、少し疑問である。

ここで出てくるのが、「サラダボール」という言葉である。「アメリカは人種の坩堝ではなく、サラダボールである」という言葉を残した学者がいるそうだ。この「サラダボール」の意味するものは、「混ざっているようで、絶対に混ざらない」だという。何でも解けて混ざってしまう「坩堝」との対比である。多人種、多文化、多宗教な社会において、本当に人々が混ざり合うことがあるのか?という問いなのかもしれない。

ブラッドフォードは「坩堝」なのか?それとも「サラダボール」なのか?決して「坩堝」の方が「サラダボール」より良いなどということは言えないはずである。そんなことを言うのは無責任である。ただ、頻繁に唱えられる「他者への理解と尊敬」の意味は何なのだろうか。それは、互いに「混ざり合って存在する」ということなのか、それとも「混ざり合わずに、存在する」ということなのだろうか?いや、他に何か別の道があるのだろうか?

親近感をもつ対象を選ぶことが「差別」になるとされれば、それは個人の自由意志の抑圧かもしれない。「差別」になるといけないからという理由で、普段は親近感を持たない人と接触するのであれば、それは「逆差別」と呼ばれるかもしれない。では、そんな環境にいる人間はどう行動すべきなのだろうか。

こんなことを思うが、僕の知る限りでは、現実に誰かが「被害」を受けたというわけではない。「被害」がなければ、問題無いのであれば、これ以上考える必要はないのだろうか。そう結論付けるには、少し消極的になってしまう。

"日本人は、おっきな「日本人コミュニティ」を作ってるよね"と平和学科に2人しかいないポルトガル人に言われた。全く固まっているようには見えなかった日本人が、彼女らにはそんな風に見えるのだ。それが「差別」だとか「被害」というわけでは必ずしもないだろう。しかし、彼女らが、ある意味で、日本人に「排他性」を感じたのは事実である。それは、僕がブラッドフォードが「サラダボール」だと感じたことと同じなのかもしれない。そうであれば、このような議論をすることに、「意味」はあるのかもしれない。

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