Thinking!

2004-05-16
マザーテレサの言葉

by peace_student

イラクでの人質被害者へバッシングを行う人々が口を揃えて引用するマザーテレサの言葉がある。ネットで検索すると、この言葉が多く引用されている。僕たちはどのようにこれを解釈すべきなのだろうか?

  • 「大切なことは、遠くにある人や、大きなことではなく、目の前にある人に対し て、愛を持って接することだ」
  • 「日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」
  • 「 「汝、隣人を愛せ」とは愛が身近な人々から始まるということであり、日本の貧困を見捨てて海外の貧困を救済するの輩は偽善者なのである。日本人なら、まず 日本人に手を差し伸べるべきである。」

マザーテレサの日本人への提言』(1982)

バッシングを行う人は、これらの言葉を引用して、被害者の活動(NGO・ボランティア活動)を否定している。彼らの活動が偽善であると言う。“イラクの人々のことなど何も考えていない”・“日本にも困っている人はいる。なぜイラク人なのか”などと言う。

マザーテレサがどのような意図で、どのような文脈でこの言葉を残したのだろうか。それが問題である。これは、人質被害者を糾弾する根拠となるのだろうか?

まず、最初に確認しておかなければならない事実がある。それは、マザーテレサは、マケドニア共和国(旧ユーゴスラビア連邦)出身のアルバニア人であり、その後インドに帰化して、貧しい人々、病気の人々を対象とした活動を行い、インドで一生を捧げたということだ。そして、次のような言葉も残している。

「恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。世の中で誰かに必要とされているという意識です。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。 」(*1)

このようなマザーテレサが今生きていたとして、人質被害者に何と言うのだろうか。“あなたは日本人なのだから、あなたには関係のないイラク人は忘れて、国内で活動しなさい。外国で起きている余計なことには関わるな”とでも言うのであろうか。他国の人々のことを気にかけることは他者への「愛」でもある。直接利害関係のない人々に対して、戦争で傷つき、全く報道されることのない人々に対して、国籍・人種・宗教を超えて活動を行うことをマザーテレサは否定するだろうか。もちろん、そんなことはないはずだ。

僕はこう思う。マザーテレサは、「身近な人間に気を向けることが出来なければ、遠くの人に愛を持って接することは出来ない。身近な人間に優しく出来ないのであれば、遠くの人間にも優しく出来ない。」と言いたいのではないか。そして、特に「援助」や「奉仕」という言葉だけに踊らされている人々に対する戒めであるのではないだろうか。ただ、それだけであって、海外での活動が不要などとは意味していないはずだ。そうでなければ、彼女は自分の活動・一生を自己否定することになる。

このように考えると、このマザーテレサの言葉を引用して人質被害者をバッシングする人は、自ら「身近な人」への愛の無さを自己証明しているのではないか。本当にマザーテレサの言う「愛」の意味を理解しているなら、同じ日本人である被害者に無常で非人道的な誹謗・中傷を行うはずがない。ゆえに、マザーテレサの言葉を引用して被害者をバッシングする人間こそが「愛」を語る偽善者ではないかと思ってしまう。

日本では、NGOやボランティアという市民運動(civil movement)を左翼的だとか共産主義者だとして批判するものが多い。ナンセンスである。少なくとも、ブラッドフォードで学ぶ限り、そのように捉える人間は一人もいない。欧米社会でも誰もいない。国連もNGOを対等なパートナーとみなしている。では、中国や北朝鮮に市民運動があるだろうか。そんな日本での批判は、非常に世界の流れから孤立したものだ。「市民運動」とは、右翼・左翼といった旧来のイデオロギー論だけでは語れない人道的な面も含むものだ。いや、「人道(ヒューマニズム)」というものを日本人は十分議論したことがあるだろうか。

僕がお世話になっているNGOの代表にある言葉を教えてもらった。それは、「死に至る病とは絶望である」(*2)という哲学者キルケゴールの言葉だ。身近な者への愛、遠くの者への愛。それは、絶望の淵に立つ自分のことを気にかけてくれる人が世界にはいるという「希望」でもある。その「希望」こそが人々を救う力ではないか。それは、助ける側、助けられる側という上下関係を意味するわけではないのかもしれない。

人質被害者に「身近な者への愛」があるのか。それは、会ったこともない見ず知らずの人間が語れることではない。しかし、そのことを無視して、彼らをバッシングする人間に、近くであろうと、遠くであろうと、他者への「愛」があるのかと言えば、非常に怪しい。そして、市民運動(活動)とは何か?そんな基本的なことが、日本で今必要とされている議論ではないのだろうか。一連のバッシングを見て、少しでも被害者が可哀想だと思った人がいれば、その人には小さな「愛」があり、「希望」をもたらしたと言えるのかもしれない。

僕はこのようにマザーテレサの言葉を解釈した。あなたはどう思いますか?

*1: http://www.eva.hi-ho.ne.jp/yasuhiro-goto/teresa.html
*2: http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard17.html

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