新バビロニアの滅亡によってバビロン捕囚が解除されると、約束の地エルサレムに戻った人々によって神殿が再建される。これが第2神殿時代の始まりで、セレウコス朝に弾圧される時代もあるが、紀元前152年には独立を達成した。独立の時代は100年ほどであるが、ローマの支援を得たヘロデ大王の時代には大きく繁栄し、エルサレム神殿の修復などがおこなわれている。しかし再び独立を目指した2度のユダヤ戦争でローマ帝国に敗北。ユダヤ人はエルサレムから追放され、2000年近く流浪することとなるのである。

 BC539   新バビロニア滅亡、バビロン捕囚解除
 BC515   エルサレムに神殿再建(第2神殿)
 BC332   マケドニアの支配下となる(のちにプトレマイオス朝エジプト傘下)
 BC202   セレウコス朝シリアの支配下となり、ユダヤ人は弾圧される
 BC164   ユダ・マカバイ、エルサレム奪還
 BC152   ヨタナン、独立を達成(ハスモン朝時代)
 BC63    ローマ帝国支配下となる
 BC20    ヘロデ大王、エルサレムの神殿修復
 AD66〜70 第1次ユダヤ戦争、ローマ帝国によりマサダ陥落
 AD132〜135 第2次ユダヤ戦争、ユダヤ人がエルサレムから追放される

イスラエル
 エルサレム(世界遺産)  
 現在、イスラム教の聖地の1つである岩のドームがある所が、かつての第.2神殿の跡である。神殿の丘の土台は、第2神殿時代のものがほとんどそのまま残っているので、往時をイメージしやすい。オリーブ山から眺める全景が何と言っても最高である。
2014.4 オリーブ山より 神殿の丘全景とエルサレム旧市街
見えているのは正面が東壁、左側は南壁になる
 現在、ユダヤ教の聖地となっているのは、神殿の丘の西壁、通称嘆きの壁である。神殿の四方の壁はどれもほぼ残っているが、第2神殿時代の至聖所にいちばん近いのが西壁なので、ここが聖地となっているのである。西壁の北半分は市街地の中に埋もれてしまっているが、トンネルツアーで地下に眠る西壁やハスモン朝時代の貯水池などを見学した。
2014.4 嘆きの壁(第2神殿西壁)
下から7層がヘロデ大王時代の壁で、その上は十字軍時代の増築
2014.4 嘆きの壁に祈るユダヤ人
2014.4 西壁の地下
 第2神殿時代の入口フルダ門は南壁にあった。この門の前は考古学公園となっていて、当時の雰囲気が感じられる。西壁の南端にはロビンソン・アーチと呼ばれる巨大なアーチ橋があったようだが、これは想像するのが難しかった。
2014.4 南壁の遺跡
壁の中央付近にフルダ門があった
2014.4 西壁と南壁の交点
西壁の突起がロビンソン・アーチの跡
 ヤッフォ門の脇にあるダビデの塔は、もとはヘロデ大王時代の要塞である。残念ながらツアーのコースに入っておらず、自由行動で塔の前まで行ったが、夕方だったので中に入れなかった。
2014.4 ダビデの塔
 第2次ユダヤ戦争の後ユダヤ人が追放され、エルサレムはローマ的な街に改造された。現在の城壁の位置は、この時とほとんど変わっていない。ツアーではフン門ばかり通ったので、自由時間にダマスカス門からヤッフォ門まで散歩した。夕陽に輝く城壁がとても印象的であった。
2014.4 ダマスカス門 2014.4 カルドー(ローマ時代の大通り)
2014.4 ヤッフォ門 2014.4 エルサレム城壁の夕陽
 ☆世界遺産「エルサレム旧市街と城塞」 1981年登録
 カイザリア  
 カイザリアは、エルサレムへの海の玄関として、ヘロデ大王が新たに建設した港湾都市である。ローマ的な円形闘技場や競技場、水道橋などが建設され大繁栄した。その後も重要な街であり続けて、ビザンチン時代のモザイクや13世紀の十字軍の要塞跡など、さまざまな時代の遺跡が見られるところである。
 円型闘技場は、現在は劇場として使われていて、古さはあまり感じられない。その北側が広大な競技場で、海とのコントラストが美しかった。 
2014.4 円型闘技場 2014.4 競技場 奥は港湾施設
 競技場の奥はかつての港で、港を取り囲むようにアラブ時代の街やビザンチン時代の遺跡、十字軍の要塞などが集まっている。興味深い所だが、説明があまり無いのが残念であった。 
2014.4 アラブ時代の街 2014.4 ビザンチン時代の遺跡
 水道橋は少し離れているので、バスで移動した。農業用と飲料用の2本の水道があり、飲料用は9kmも先のカルメル山の泉から引いている。砂浜を一直線に走る水道橋は、ほかでは見られない光景である。 
2014.4 水道橋 2014.4 水道橋の上部
 マサダ(世界遺産)  
 マサダは、もとは紀元前100年頃につくられた要塞で、ヘロデ大王が大規模な増築を行って離宮とした。とはいってもヘロデ大王は一度もここを訪れなかったと言われているので、いざという時に籠城しようとしたのだろう。紀元後66〜70年の第1次ユダヤ戦争では、ローマ軍に追い詰められたユダヤ人967人がマサダに立て籠もり、1万のローマ軍を相手に2年以上抵抗を続けた。最期は7人を除いて全員自決し、ユダヤ人離散の象徴ともなっている所である。
 マサダの要塞は、400mの岩山の山頂にある。山の右側は3段の階段のように見えるが、ここは北の宮殿がある所である。上まで歩くこともできるが、ロープウェイで一気に登った。 
2014.5 山頂がマサダ要塞
 山頂は広く平らで、その北側に遺跡は集中していた。食糧庫や浴場などは壁が残っているので、当時をイメージしやすい。浴場には壁の色やモザイクも残っていた。 
2014.5 広大なマサダの遺跡 2014.5 食糧庫?
 北の宮殿は、遠くから見た時に階段状になっていた所で、真ん中の段は円形、下の段は四角と、違う形になっているのが面白い。下の段にある宮殿は壁の色や柱が残っていた。
 マサダの周囲は、荒野と断崖の壮大な風景が広がっているが、そのところどころにはローマ軍がマサダを攻めた時の陣地跡が残っている。マサダを攻撃するために建設したスロープも、少し低くなってはいるが残されていた。 
2014.5 北の宮殿跡 2014.5 周辺にはローマ軍の陣地跡が残る
 ☆世界遺産「マサダ」 2001年登録
パレスチナ
 クムラン  
 死海に面したクムランは、死海写本が発見された所として有名になった。死海写本とは、旧約聖書やユダヤ経典の写本なのだが、それまで見つかっていたものより1000年も古い紀元前2世紀に書かれていたのである。この写本によって、今から2000年以上前の聖書と現在の聖書のどこが違っているかわかるのである。死海写本そのものはエルサレムの博物館にあるので、ここは小さな遺跡を見学しただけで、あまり印象には残っていない。
2014.4 クムラン遺跡
背後は死海

イスラエル -第2神殿時代